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解説-25.「紫式部日記」日記の構成と世界-三人の才女批評B2
山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集
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日記の構成と世界-三人の才女批評B2
構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分
今回は「B部分二回目のB2」
手紙の話題から、次は三人の才女批評となる。どのような才女こそが望ましいのか。結論は最初から用意されている。女房批評で得た結論の路線に沿った、作品も生きかたも重々しく本格的で思慮ある才女である。
和泉式部は大歌人だが、天才肌の印象と醜聞により、ここでは賞賛が控えられ、赤染衛門こそがその良妻ぶりも合わせて評価される。
清少納言への舌鋒の鋭さは、「枕草子」を丸ごと否定したいかの如くである。紫式部には、清少納言が定子文化を代表し、その追憶を今なお(定子が西暦1000年に亡くなった後も)支え続けていることへの危機感があったのだろう。
私的には、紫式部自身の骨肉とも言える漢詩文素養を単なるアクセサリーのように扱われ、許せないと感じたということもあったのかもしれない。
次には自分を俎上に載せ、自分がいかに人の目を憚り、抑制的に生きているかを縷々述べる。「我こそは」と思い上がって他人を批判する同僚の前で、煩わしさを避けるために「惚け痴れ」を演じていたら、皆から「かうは推しはからざりき」「あやしきまでおいらか」と驚き賞賛されて、それならばと「おいらか」を本性にするべく自己陶冶、結果として彰子の信頼を得たという。
ここに来て、この文章は誰を読者と想定しているのかが、ようやくほの見えてくる。「消息体」には他見をはばかる話題が多いが、この箇所こそは、決して同僚には見せられないものである。そのようなことをすれば、その瞬間に、紫式部は自己の標榜する「おいらか」とは正逆の存在になってしまう。
つまり、彰子後宮改革の気炎も、彰子を盛り立てる気概も、そのまま同僚に向かって放つものではないのである。ここに書かれた紫式部のすべてを受容し、そして決して漏らさないと紫式部が信頼する人、そのごく限られた相手だけに対して、この文章は綴られたのだ。
紫式部は記している。「すべて女房は人当り穏やかに、少し心構えに余裕を持ち、落ち着いているのを基本としてこそ、教養も風情も魅力となるし、安心して見ていられるものです」。こうした教えで誰を導こうとしているのだろうか。
消息体の読者として最も適(かな)わしいのは、娘の賢子である。消息体が執筆された頃、賢子は十歳を少し超えている。近い将来彰子の女房となり、母と同じ道を歩むことは見えている。そのための、母から子への実用的・具体的な指導書と考えれば、内容の露骨さにも、くどいと感じられるほどに熱のこもった口調にも合点がゆく。
紫式部が最後に綴るのは、自己の漢詩文素養についてである。たまたま身についてしまった、だが世間では女性にそぐわないとされる教養、
それを活かすにはどうすればよいのか。決してひけらかしてはならない。あくまで秘して、だが彰子に求められれば、「白氏文集」で最も儒学的なテキスト「新楽府」を進講する。それは第一に、彰子に一条天皇の教養を与えるということにもなった。
紫式部は漢文素養を、自己が考える最も望ましい方法で活かしたと言える。
消息体末の挨拶文には次のようにある。
「御文にえ書き続け侍らぬことを、よきもあしきも、世にあること身の上の憂へにても、残らず聞えさせおかまほしう侍るぞかし」。手紙に書けないこととあるからには、消息体はやはり、実際の手紙が紛れ込んだものではない。改まった教導の論であり、意図的に書き込んだものである。
また筆者(山本氏)はこの部分を、私家本の事実上の跋文(ばつぶん:あとがき)と考えている。ここに記されるとおり、良いことも悪いことも含め、彰子後宮界の出来事、紫式部自身の辛さ、それらを見つめ、我が「世」と「身」そして「心」の情報を漏らさず娘に伝えることが、私家本制作の目的だった。それは自ずと、人生苦を抱えながらの、女房として成長の足跡を辿ることとなった。
次回はC年次不明部分:道長との贈答などのC1
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