解説-27.「紫式部日記」日記の構成と世界-D後半記録体部分
山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集
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日記の構成と世界-D後半記録体部分
構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分
今回は「D後半記録体部分」
寛弘七年正月、紫式部はすっかりプロ女房になっている。
この部分は、自身の今の到達を記し置いたものであろう。前半記録体の寛弘五年の行幸では、小少将の君と共に油断していて帝の到着に遅刻寸前となった紫式部だったが、この部分の敦良親王誕生五十日の儀では、暁から参上して準備に当たっている。親友の小少将の君は進歩なく遅い参上で、しかし二人の仲はむつまじい。
他人の不行き届きを避難せず、自分は一人で粛々と、するべきことをする。紫式部は度量の広い女房になっている。
また、この五十日(いか)の儀で御前の取り入れ役に当たった女房たちの、「袖ぐちのあはひ」がよくなかったと、後になって宰相の君が残念がった。それに対しては、「織物ならぬをわろしとにや、それあながちのこと」と、禁色である織物の着用は無理だと反論している。
面と向かって言ったのではあるまいが、紫式部は自分の見識を持てるようになっている。かつて前半記録体の寛弘五年十一月の五節で、同僚たちの勢いに押されて左京の君いじめに加担してしまった紫式部とは、もう違う。
さらに、正月二日、殿上の遊楽から帰った道長から「歌一つ仕うまつれ」と言われたときの対応にも、変化が見られる。
かつて前半記録体の寛弘五年十一月一日、紫式部は同じように道長に詰め寄られ、「いとわびしく怖ろしげなれば」即座に詠んだ。だが今回の紫式部は「うちいでむに、いとかたはならむ」と、自分から詠まないという慎みを見せている。
それによって、道長の「年ごろ宮のすさまじげにて、ひとところはおはしますを、さうざうしく見奉りしに、かくむつかしきまで、左右に見奉るこそ嬉しけれ」という本音の感懐を引き出し、さらに彼が「野辺に小松のなかりせば」という時宜(じぎ)に適(かな)った古歌の一節を口ずさむ機会を導いたのである。
なおこの時の道長へのまなざしには、前半記録体の硬直的上下関係からは数段こなれた、心情的寄り添いが見られる。男子を二人あげた彰子を安堵の目で見つめ、来るべき東宮争いを、口に出しはしないが心に置きつつ、主家の晴儀(せいぎ)を記して「紫式部日記」は幕を閉じる。
次回は 大弐三位賢子1