解説-7.「紫式部日記」彰子の入内
山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集
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彰子の入内
それには、道長と彰子が大きく関わる。永延二(988)年生まれの彰子は、それまではまだ幼く、キサキとしてのレースに参戦できなかった。しかしこの長保元年二月、ようやく裳着を終え、大人の女性となっていた。そこへ来ての、定子懐妊の事実であった。
道長は彰子の年内入内を視野に入れつつ、定子に圧力を加えた。その中には、出産に向けて定子が里下がりする当日、故意に公卿たちを宇治の別荘に招き、定子の行啓に奉仕させないようにしむけるということもあった(「小右記」同年八月九日)。
彰子は十一月一日に内裏に入った。
そして定子は、それからたった六日後の十一月七日に、天皇の第一皇子、敦康(あつやす)親王を産んだ。
おりしも彰子が女御の称号を受け、初めて天皇と夫婦になる当日であった。道長は盛大な祝宴を催し、藤原氏出身の公卿全員に出席を求めた。
一方定子の男子出産に対しては、「小右記」(同日)は「世云はく「横川の皮仙」と」と記している。「横川の皮仙」とは、鹿側の衣を着て型破りな宗教活動を行った僧行円(ぎょうえん)のあだ名だが、ここでは定子への評である。
出家のくせに出家らしくないということだ。定子の一度の出家は、それだけキサキとしての正当性を損なうことであった。
一条天皇は、彰子を尊重した。だが「栄華物語」(巻六)は、天皇の気持ちは娘に対する種類のものであったと記している。
彰子の背後には道長がおり、道長は貴族をまとめる筆頭であって、天皇の政治上の片腕だった。天皇にとって定子は愛情の対象であったが、彰子は政治的存在であった。これは、翌長保二(1000)年二月二十五日、彰子が中宮となるに至って、ますます鮮明となった。
一条天皇の中宮は定子であり、中宮とはその天皇の第一のキサキの称号なので、一人の天皇に唯一ひとりであるのが当然である。しかし道長の要請を受け、天皇は前代未聞の一帝二后冊立に踏み切った。中宮の名を二つに分け、定子は中宮の正式呼称である皇后、彰子は中宮となった。
つづく