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解説-28.「紫式部日記」日記の構成と世界-大弐三位賢子1

解説-28.「紫式部日記」日記の構成と世界-大弐三位賢子1

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界-大弐三位賢子1

今回は「大弐三位賢子1」

  最後に、この作品の読者と想定される、紫式部の娘大弐三位について簡単に触れておきたい。

  大弐三位藤原賢子は紫式部と夫藤原宣孝との間に、長保元(999)年か二月に誕生した。長保三年に父を亡くし、その数年後に母紫式部が中宮彰子付き女房として出仕、やがてそれなりの重きを占めるに当たって、娘の彼女が将来宮仕えして女房となる道筋はついたと考えられる。
  下級貴族出身で累代の女房層女房、また「源氏物語」作者紫式部の娘としてである。

  賢子には私家集「藤原三位集」があり、そこには彰子に出仕した後の、貴公子たちとの恋の贈答も収められている。

  相手は、例えば藤原定頼(995-1045)。「このわたりに若紫やさぶらふ」と紫式部に声をかけたと「紫式部日記」に記される藤原公任(きんとう)の息子である。出会いは定頼の蔵人頭時代の寛仁元(1017)年から四年頃とおぼしい。

  また倫子の異母兄大納言源時中の七男朝仁(あさとう989-1034)とは、彼の頭中将時代、寛仁三(1019)年から治安三(1023)年頃に、情熱的な恋歌を交わした。

  また「後拾遺集」の大弐三位歌(恋四・792)詞書に「堀川右大臣のもとにつかはしける」とあることからは、道長と源明子との間の長男頼宗(993-1065)とも関係があったと知られる。

  「紫式部日記」には「高松の子君達」と一括して記され、彰子付き若女房にじゃれる姿を書きとめられた貴公子たちの一人である。

  賢子に大きなチャンスが訪れたのは、藤原兼隆の子を産んだときであった。兼隆は、道長の兄で世に七日関白と呼ばれた道兼の息子である。父の死後道長を頼り、「紫式部日記」の寛弘五(1008)年には二十四歳で、「右の宰相の中将」の呼称で何度も登場する。

  万寿二(1025)年、時の東宮敦良親王に第一皇子親仁(ちかひと)親王が誕生した。産んだのは道長の娘で彰子の末の実妹、嬉子(きし)である。
  だが嬉子は出産前にかかった赤裳瘡(あかもがさ)で衰弱していたためか、二日後に死亡(「日本紀略」)、さらに乳母に決まっていた女房も赤裳瘡にかかり辞退して、急遽賢子が代わりの乳母に抜擢されたのだった。

  「栄華物語」(巻二十六)には「大宮(彰子)の御方の紫式部が女の越後弁(賢子)、左衛門督(藤原兼隆:左衛門府の長官)の御子生みたる、それぞ仕うまつりける」とある。ここに「左衛門の督の妻」とは無いことに注意したい。当時二位正中納言の兼隆と彰子付き女房賢子との関係は、結婚とは呼べないものだった。だが、貴顕との恋は女房の誉れである。賢子はそうして得た子によって、願ってもない飛躍の機会を手に入れたのだった。

次回は 大弐三位賢子2 解説シリーズ最終回です。
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