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21 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート” 」

21 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート” 」

 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”

  11月26日に、第一航空部隊が一隻また一隻、錨をあげて、白雪によって一面覆われた択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾から出撃して、征途についた。
  機動部隊は冬場は交通量が少ない、アリューシャン列島の南の北寄りの航路をとって、一路、ハワイへ向かった。

  出撃に当たって、もし途上で日米交渉が妥結した報せを受けたら、その場で作戦を中止して、すぐに引き返すように、厳命を受けていた。

  日米両国は日本時間でこの⒓日後に開戦し、広大な太平洋を舞台として、三年八ヵ月以上にわたって死闘することとなった。

  ハワイを目指す第一航空艦隊は、どの艦も機密保持のために、厳重な無線封鎖を行なっていた。
  ところが、途上で何回か無線封鎖を破って、連絡のために僚艦に向けて、微弱な低周波電波を発したのを、フィリピンのコレヒドールと、グアム島、アラスカのダッチハーバーの無線所が、そのつど傍受して、方位を探知することによって、その位置をつかんだ。

  これほど、大規模な日本艦隊がアメリカの領土へ向かったことは、かつてなかった。

  偶然の一致だが、第一航空艦隊が出撃したのと同じ11月26日、ハル国務長官は、野村、来栖両大使を午後5時に国務省に招いて、突如”ハル・ノート”を手交した。
  ”ハル・ノート”は、日本大使館から、ただちに外務大臣に宛てて打電された。
  ”ハル・ノート”が列記した提案は、従来の交渉経緯をまったく無視したもので、日本としてまったく了解しがたいものだった。

  政府と軍の誰もが、アメリカの最後通牒だと判断した。
  東郷外相は後に”ハル・ノート”を読み終わると、「眼も眩む思いがした」と、改装している。
  ”ハル・ノート”は十ヵ条から成り立っていた。
  そのなかには、在来日本資産の凍結解除、円貨の安定などの条項もあったものの、中国大陸と仏印から、一切の陸海空軍と警察力を即時撤収することや、蒋介石の重慶以外の政権を認めることを禁じた点だけをとっても、考慮の余地がなかった。

  重慶の蒋介石政権だけを正統派政権として認めるという要件は、日本が国交関係を樹立していた南京政権の存在を否認するものだし、また、日独伊三国同盟からの実質的な離脱を求めていたのも、国際条約を否定することは、国家の信義を裏切ることになるので、できなかった。

  ”ハル・ノート”は、日米交渉がそれまで積み上げてきたものを無視して、根底から壊す言語道断なものだった。アメリカはそうすることによって、日本を戦争に追いやった。

  ルーズベルト(FDR)政権は日本が受諾することを、はじめからまったく期待していなかった。
  チャーチル首相は後に、”ハル・ノート”について、「われわれはその瞬間まで、(”ハル・ノート”の)十項目について知らなかった。この文書はわれわれが要求していたものを、はるかに大きく上回ったものだった。日本大使があきれ返ったというのは、その通りだったにちがいない」と、回想している。

  ハル国務長官は、野村、来栖両大使に”ハル・ノート”を手交した直後に、スティムソン陸軍長官に「これで、私のほうは片づいた。あとの仕事は、君とノックス海軍長官の手のなかにある。陸軍と海軍のね」と、言った。

  ”ハル・ノート”を起草したのは、ハルでも、国務省でもなく、ハリー・デクスター・ホワイト次官補だった。ホワイトは、モーゲンソー財務長官の片腕だった。

(投稿者補足:ユダヤ系ホワイトは、ソビエトのエージェント(スパイ、コミンテルン)であった。同じユダヤ系モーゲンソーに出会うまでは苦しい生活をつづけたが、「ドイツ民族をこの世から消してしまいたい」という憎しみを抱くモーゲンソーに優遇され、アメリカをヨーロッパの戦争に参戦させるために、日本を挑発するハル・ノートを草案したことが評価され、アメリカの経済学者の頂点で活動できるようになった。終戦後はアメリカで米国兵が多数死亡する原因を作った国家反逆罪などで追及され、追及の途上で病死した)

  ホワイトが書いた文案は、日本に戦争を決意させるように追い詰めることを、狙っていた。そのうえで、モーゲンソー財務長官を通じて、ルーズベルト(FDR)大統領に提出された。
  ルーズベルト(FDR)はモーゲンソーから受け取ると、ただちに承認し、ハルに日本大使に手交するように、指示した。

  モーゲンソーは、ハル、スティムソン、ノックスを加えた四人の側近の閣僚のなかで、ルーズベルト(FDR)ともっとも親密だった。
  ルーズベルト(FDR)が1945(昭和20)年4月12日に、ジョージア州ウォームスプリングスの別荘で急死した前の晩に、モーゲンソーを招いて夕食を共にしていた。この時、ルーズベルト(FDR)はもっぱら回顧談に耽って、機嫌がよかった。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長
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