32 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い 」
第2章のシリーズ終了です。第3,4章は省略します。次のテーマは未定です。
第2章
米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い
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2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い
1944(昭和19)年12月に、今度はドイツと日本を戦後どのようにして処理するか、計画するために、国務省のSR(スペシャル・リサーチ・ディビジョン)に、陸海軍三省が加わって、調整委員会が発足した。
日本はそのもとに置かれた極東小委員会によって、扱われることになった。
国務省では、ヒュー・ボートン(1930~1995年)が中心になって、対日平和条約を作成する作業が始まった。
ヒュー・ボートンは、代々、敬虔なクエーカー教徒の家庭に生まれ、1929(昭和3)年に二十五歳で、クエーカー教団のアメリカ友情奉仕委員会によって、日本の調査を目的として派遣され、夫人のエリザベスを伴って来日、三年間にわたって東京に滞在した。
その後、1935(昭和10)年に、妻と一人娘のアンを連れて、再び日本に戻り、東京帝国大学大学院に編入、日本史を学んで、翌年、帰米した
その後ボートンは、1942(昭和17)年10月に、乞われて国務省に入省すると、SRの一員となった。
戦後、1935(昭和23)年に国務省を退官した後に、ニューヨークのコロンビア大学教授となり、日本専門家として教鞭をとった。
著者はボートン教授のもとに通って、対日講和条約案を作った経緯について、質した。
1946(昭和21)年に、国務省の対日講和条約案が完成した。その内容は、きわめて過酷なものだった。
この対日講和条約第一次案では、日本が永久にいっさいの軍事力を持つことを禁じていた。そのうえ、日本の軍事力が将来万が一にも復活することがないように、入念な予防処置が組み込まれた。
航空機は軍用期はもちろん、民間機も一機すら保有することを禁じられ、戦略物質の貯蔵から、軍事目的を持つ研究、核平和利用に関する研究まで許されなかった。
公職追放は一定の水準以上の者については、講和条約が結ばれた後も、永久に続くことになっていた。
そのうえ、日本を条約で縛っただけでは、安心できず、日本が軍備、軍需品の生産能力を持つことがないように、講和条約を結んだ後に25年間にわたって、極東委員会ーー連合国の対日占領政策の結締機関ーーを構成する11ヶ国からなる国際監視団によって、監視されることになっていた。
対日講和条約の第一次案は、第一次大戦後にドイツに課せられたベルサイユ条約よりも、はるかに過酷なものだった。
マッカーサー元帥の総司令部は、この講和条約第一次案を下敷きにして、日本国憲法を押しつけるように、指示された。
現行の日本国憲法は、とうてい憲法と、呼ぶことができない。憲法を装った不平等条約である。
参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長