「易」と映画と「名文鑑賞」

タイトルの通りです。

本田済「易」 P4~P5

2015年10月17日 00時52分56秒 | 
本田済「易」 P4~P5
 宋の朱熹(朱子)はいう、「易はもともと卜筮のためにつくられたものである。後世の学者が、卜筮の説を鄙(いや)しいとし、言うに足らずとするのは誤りである」(『朱子語類』)
 なぜ後世の学者が卜筮の説をいやしいとするのか。問題は占いというものと倫理の立場との矛盾にかかっている。倫理の立場からいえば、人間は良心の命ずるままに行動すべきであって、結果の損得は顧慮すべきでない。ところが占いというものは、結果を先に見せてくれる。結果を見て有利なように行動するのでは、倫理的に不純である。というのがおもな問題点らしい。朱子はこの点をどのように解決しているかというと、『朱子類語』に、次ぎのような意味をのべる。
 「易は、人のために占って疑惑を断ち切るためのものである。道理としてこうすべきなら、当然そうすべきである。道理としてしてならぬなら、してはならぬ。そういう場合、改めて占う必要はない。正しいことで道が二つに分かれて迷うときにだけ占うのである。悪いこと、私欲のことについて占ってはいけない。」
引用終わり----------------
易を学んでいると、いたるところに「正しい道を固く守り続けていれば」という条件が登場します。そうすれば、「吉」であったり、「咎なし」であったり、「悔いなし」であったりするわけです。
つまり、正道から外れた事に関しては、この限りに非ず、ということになります。
正しく生きている人にだけ、少しでも難を逃れられるような示唆を与えましょうということですね。
「正道固守」を継続する事。なかなか大変ではあります。