arata-tokyo-jp's blog(Henry Nagata)

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手段と目的について

2005年03月23日 00時18分08秒 | エッセイ
今日お話したい事は、「手段」と「目的」についてです。
世の中を見ていますと、この二つの事を混同している人たちが少なくないのではないか、と以前から感じていたのです。
例えば、良い大学に入る事を「目的」として子供の頃から一生懸命に勉強をして来た人がいたとしたら、どうなるのでしょう。
小学校に行って勉強するのは何の為か?・・・それは中学校へ行く為である。
中学校に行くのは何の為か?・・・それは高校へ行く為である。
高校に行くのは何の為か?・・・それは・・・
このように考えている人が大学に入学したならば、どうなるのでしょうか?

大学に入る事を目的として来た人にとっては、大学に入ってしまった後は目的を見失ってしまう事になるのではないでしょうか。
最近では大学を卒業しても定職に就こうとせずに、フリーターでいようとする人が多くなっているのも、もしかするとこういう事と関係があるのかも知れません。
またこれと同じように、良い企業に就職する事が「目的」と考えて来た人とっては、就職出来た後にはどうなるのでしょうか。
良いお婿さんを見付ける為に勉強して来た女性は、結婚した後にはどうなるのでしょうか。
勉強や就職や結婚というのは人生の「目的」ではなく、「手段」なのではないでしょうか。
では勉強や就職や結婚をする事の本来の「目的」とは何なのでしょう。


占いについて考えて見ます。
世の中には占いを信じすぎて?却って不幸になる人がいるようです。
運勢的に見て最悪の年に結婚してしまった事を占い師に告げられた人が、深刻に悩んで離婚までしてしまったとTVで放送していました。
占いの本来の「目的」とは何なのでしょう。


宗教についても考えて見ます。
宗教の熱狂的な信者になってしまって、却って不幸になる人がいる事は周知の事実です。
占いや宗教を熱狂的に信じている人の中には、次のような考えの人もいるのではないでしょうか。

この占い師の言う事は良く当たる・・・だからこの占い師の言う事はよく聞く。
でも当たらない占い師の言う事は絶対に聞きたくはない。
この宗教を信じたらご利益があった・・・だからこの教祖の話はよく聞く。
でもご利益のない宗教の話は絶対に聞きたくはない。
これでは「優秀な人の話は聞くが、頭の悪い人の話は聞きたくない」というのと同じ事になってしまいます。
宗教を信じる事というのは「手段」なのではないでしょうか。
では宗教の本来の「目的」とは何なのでしょう。


若い頃にJAZZの音楽教室で先生が話してくれた事があります。
「アドリブのセンスの良い生徒がいたので、もっと良くなるだろうと思って理論を教えたら、却ってつまらない演奏をするようになってしまった」と。
先生もかなり残念そうに話していたのを思い出します。
音楽や理論を学ぶ事の本来の「目的」とは何なのでしょう。


現代の日本は食料が溢れている時代ですから、太り過ぎる事を気にする人たちも多い訳ですが、中には無理なダイエットの結果、極端に痩せ過ぎてしまう女性もいるようです。
「やせる事が出来たら死んでも良い」などと言う変な冗談もあるくらいです。
痩せる事、もしくは綺麗になる事というのは、「目的」ではなく「手段」なのではないでしょうか。
では痩せる事や綺麗になる事の本来の「目的」とは何なのでしょう。


若い頃「ネズミ講」に入っている知り合いから誘いを受けた事がありました。
「君を儲けさせてあげたいのだ」と、熱心に話していました。
初めは心地良い話ばかりをしていましたけれども、私が入らない事がはっきり分かると、急に態度を変え「君はそんな事だからダメなのだ」と不愉快な捨て台詞を残して去って行きました。
人間関係を悪くする事には、全く無頓着のようです。
世の中のほとんどの人たちは、お金がもっと沢山あればいいのにと思っている事でしょう。
お金があれば、大きな家に住む事も出来ます。
しかしお金がありさえすれば、どれほどの問題が解決するというのでしょうか。
お金儲けや良い家に住む事というのは「手段」なのではないでしょうか。
ではお金儲けや良い家に住む事の本来の「目的」とは何なのでしょう。


さて、いくつかの例をあげて来ましたけれども、これくらいにしておきましょう。
これらの事に共通している事というのは、ある一つの事柄を絶対的に正しいと思い込んだ事により自由が利かなくなり、他の考え方を受け入れられない状態という事だと思います。
「頭が固い」という状態です。
大まかに考えた時に、人生のあらゆる「手段」というのは、たった一つの「目的」の為にあるのではないかと思うのです。
その目的というのは・・・「幸せになる為に」・・・という事だと思います。

しかし、この何でもない言葉のように見える「幸せ」というものを理解する事が、実際は案外難しい事なのです。
これは経験が無い人には全く理解出来ないからです。
手段と目的とを間違える原因の一つに、この事があるようにも思います。
私は若い頃には、結婚式の若いカップルの派手な喜びように、「こういうのが幸せなのだろう」と何となく思っていたものです。
勿論今ではこのような考えはありませんが、これに関しては過去のエッセイ「結婚式の若いカップルは幸せですか?」の中に詳しく述べていますので、興味のある方はそちらをご覧下さい。、


さて、作曲家が新しい理論を勉強するのは、過去の音楽から「自由」になる為です。
間違っても他人の音楽を学んで、他人と同じ事をする為ではありません。
自分の中の色々な趣味を混ぜ合わせ溶け込ませて、自分の音楽を創る為です。
ここで、「教育」について少しだけ触れたいと思います。
「教」と「育」、つまり「教える事」と「育てる事」についてです。
これは「幸せ」という事と深い関わりがあるように思えるからです。

「教える」という事は、先生の中にある考えを絶対的に「正しい」と信じて、生徒の考えの中に入り込ませる事です。
例えば先生が持っていた教科書を生徒に渡したのと同じように、単なる「物体が移動」したのと同じです。
生徒はこの先生から「移植」された考えを正しいと信じて、試験の問題で答えを出す事によって先生から100点をもらえる仕組みです。
これによって優秀な学校にも入れます。
ただ単に信じていれば良いのです。

ですから先生から「太陽や星がが回っているのだ」と言われればそれを信じ、「地球が回っているのだ」と言われればそれを信じていさえすれば、試験で100点が取れる仕組みです。
「天動説」と「地動説」の話です。
ほとんど信じる事と暗記能力にかかっています。
「ダーウィンが東大を受験しても、試験にはパスしないだろう」と言われるのも、これと関係があると思います。

最近は日本でも創造性開発とかが尊ばれて、教育も変わって来ているような話も聞きますけれども、どうなのでしょう。
古い時代に「太陽が回っている」と教えられれば、それ以外の考え方を理解出来なかったのと同じように、現代に於いて「地球が回っている」と教えられれば、それが絶対に正しい普遍的な事実だと思い込んでいる人たちが多いのではないでしょうか。
今後「天動説」や「地動説」以外にも、全く新しい説が登場して来る筈なのです。

さてもう一方の「育てる」という事ですが、
これは先生の考え方を生徒にぶつけて、生徒が本来持っている考え方を触発して発展させる事です。
信じる事でも移植でもなく、「個性」を育てて花を咲かせる事です。
ここには「正しい」という事がありません。
一つの個性を正しいと考えてしまったら、他の個性はどうなってしまうのでしょう。
ですから上下関係もない筈です。
「幸せ」になる事と「育てる」という事には、深い関わりがあるように思えます。


私は勉強や占いや宗教や、その他の全ての人が話す事には、一応は耳を傾けた方が良いと思っているのです。
例えば占い師のお婆さんがいたとしたら、「当たる当たらない」に関わらず、ただのお婆さんのアドバイスとして話を聞いてみたらどうかと思うのです。
宗教家のお爺さんがいたとしたら、「ご利益の有る無し」に関わらず、ただのお爺さんの経験談として聞いてみたらどうかと思うのです。
先生の話も親の話も、、「正しい、正しくない」に関わらず聞いてみたらどうかと思うのです。
例え当たらなくても、ご利益が無くても、正しくなくても・・・です。

初めは全く理解できないような感性や価値観でも、それが理解できた時には自分の人生にとって非常に大きな収穫になる事があるものです。
それは、ただ単に知識が増えたのとは違う性質のものなのです。

勉強する事がただ知識を増やすという事だけで終わってしまえば、単に横に広がる「量的な問題」になってしまいます。
上に向かって「質を高める」という事でなければならないと思います。
これには「発見」や「目覚め」という事がどうしても必要になります。
これによって「自由」や「個性」や「幸せ」という事に大きな影響を及ぼすようになる、と考えられるからです。
今まで自分が知らなかった「価値観」や「美意識」に触れる事が、それらに良い影響を与える事と思われます。


2005.7.17 追加分です。

分かり易くする為に、この辺でまとめてみましょう。

世の中の不幸な人たちを見た時に感じました事は、その一つの理由として「手段」と「目的」とを混同しているからではないか・・・と感じた次第です。
そして、どのような事柄(手段)であっても、その「目的」というのは常に「幸せになる為に」・・・という事でなければならないと思った訳です。

また「手段」と「目的」とを混同する理由として、「幸せ」というものが案外理解する事が難しいからではないかと感じた訳です。
例えば、経済的に豊かになって、立派な家に住んで、顔や姿が綺麗になって・・・というような量的な「物質的」な事柄では、幸せというものは味わう事は出来ないと思います。
それは、ただ単に「楽しいだけ」の事であって、幸せとは次元が違うと思います。

経験的に理解した事ですが、「幸せ」になる為には、何らかのインスピレーション、目覚めによる「自己発見」が必要になると思います。
そして、自己発見をする為には、大まかにではありますが二つの方法があると思います。
一つは、自己内省的になる事。
これは座禅をしたり、一般的には病気や人との別れや色々な苦しみを経験した時に、何らかの発見があると思います。
自己の内面に深く入り込む事によって、沢山の人たちと「共通の心」を知る訳です。

もう一つの方法としては、他人を見る事、他人の話を聴く事、他人の創作した作品を理解する事・・・などによって自己発見をする事が多いように思います。
「他人の中に自分を観る」という事です。

幸せになる為に大切な「教育」の「教」と「育」について・・・
私の少ない経験で感じました事は、物質的に恵まれて「楽しい人生」を送りたいのであれば、他人から「教わる事」、もしくは「優秀な人の真似(コピー)」をする事が大切だと感じました。
また貧しくとも「幸せな人生」を送りたいのであれば、人真似ではなく一生の間「自己発見」によって「自分を育てる事」が大切だと感じました。
教育というものは、自分を一つの考え方に縛り付けるものではなく、「自己発見」によって「自由」を得る為のものでなければならないと思います。

幸せになる為には・・・世界で唯一つの「個性」と、「万人共通の心」を探求して、「自由」を得なければならないと思います。

人生と言うものは色々な意味で苦しいものだと思います。
しかし、それでもそんな人生に自分だけの小さな花を咲かせてみたいものだ、と思った次第です。
泥の中に咲く、蓮の花のように・・・
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考えました (sari)
2005-03-24 20:08:02
このエッセイを読んでいて、あることを考えました。私が興味をもったことに対して、実行しようとすると、周囲から反対を受けます。それは、騙されるのではないか、危険なのではないかと。でも、私は、やってみなければ分からないという意思があります。そして、衝突してしまうのです。人の意見を聞くということは、大切なことだと思います。中に、色々な人の話を経験談として聞いてみればいいということが書いてありましたが、私は、その忠告を聞き流すことができません。勿論、宗教やネズミ講をやってみなければわからないと言っているのではありません。以前、ある体験会に行ってみたいと言ったときも、そういうのは、必ず行けば、その気にさせられて、入会させられると言われました。そういう経験があると。長くなってしまうので、詳しくは書けませんが、人は、少し特殊な考え方のものに対して、受け入れにくいようです。でも、私は、実際に行ってみて、判断したいのです。私には、そういう人達の方が、頭が固いように思えてなりません。その忠告を受け入れ、私が、体験会に行くことをやめてしまえば、私の世界が広がるチャンスを絶たれてしまうように思えるのです。それとも、人の意見を受け入れられない、私の頭が固いのでしょうか?
返信する
誤解では? (あらた)
2005-03-24 21:48:06
sari さん、こんにちは。

書き込みありがとうございます。

私の表現が的確でない為に誤解が生じているかも知れません。



私の真意を簡単に言うと、

「自分の信じている考えと正反対の意見も聞けるようにした方が、自分の世界が広がりますよ」という事と、

「目的を見失っていないかを考えてみる必要があるのではないですか」と言う事です。



sariさんが「体験会」というものに行こうとする事に対して、周囲の人たちが心配して反対するという事ですが、

まずsari さんが周囲の人たちの気持ちを理解してあげなければ、周囲を説得出来ないと思います。

自分の趣味を理解してもらう事も、相手の趣味を理解する事も同じように難しい事であると自覚する必要があります。

まず相手の気持ちを理解してあげる事が重要な事なのです。

それが自分の世界を広げる事になるのです。



それから体験会に行くのは何の為なのか、つまり「目的は何なのか?」という事を考える事です。

これは「幸せになる為に」というのが目的でなければならないと思います。

周囲の反対を押し切ってまで行動する事が、本当に「幸せ」に繋がるのかを真剣に考えてみる必要があると思います。



それから一言付け加えておきますが、

宗教的な体験というものは、宗教団体に入らなければ体験できない、と思われているのではないでしょうか?

私の経験では、宗教的とも言えるような神秘体験は、なにも宗教団体に入らなくても体験出来ると思います。

また素質のない人では、どんなに優れた宗教家の元で修行してみても、目が覚めないと思います。

若い頃から苦しい体験をしているような人の中には、、若くても大人のように目が覚めている人もいます。

苦しい体験を素直に受け止め、ひねくれずに素直に成長している人です。

何かの参考になればよいのですが・・・
返信する
Unknown (sari)
2005-03-24 22:24:53
あらたさん。ありがとうございます。正反対の意見も受け入れられるようになるということは、大切ですね。周りの気持ちを理解して、自分の一方的な意見ではダメなのですね。やはり、そうすることによって、成長できる気がします。体験会のときもそうですが、私は、冷静に相手の意見を聞くというより、自分が行きたいという気持ちが表に出てしまって、相手の意見を受け入れることができていなかったように思います。これからは、冷静に相手の意見も受け入れられるような、広い心が持てるようになればいいなと思います。ありがとうございました。
返信する
素直ですね (あらた)
2005-03-25 01:47:39
sari さん、こんばんは。

随分理解するのが早いのですね。

驚きました。

頭が柔軟になる為には、その「素直さ」が一番大切な事だと思います。



私の経験談ですが・・・

私はある時、自分が非常に「頭の悪い馬鹿な人間」だという事を発見する事が出来ました。

この自分の事を「馬鹿」と気が付いたお陰で、以前よりは少し「賢く」なったような気がしたものです。



遠藤周作の本を読んでいる時に、「自分の考えは間違っている・・・と気が付いた時から大人になる」というような事が書かれていましたけれども、自分の経験と同じような内容に納得したものです。

「自分の考えは正しい」と思い込んでいる間は、頭が柔軟に働かないように思います。
返信する
いつも楽しませて戴いております (eruze)
2005-03-25 15:17:12
あらたん、書き込みはお久しぶりです。

最近、エッセイの更新は頻繁で嬉しく思っております。



…このエッセイに対してのコメントを拝読致しまして

次のような問答をフト想い出しましたので、こちらに

綴らせていただきます。参考までにどうぞご一読を…



「西行花伝」(作:辻邦夫)の中で



「この世には人々がいるだけ、それだけ公正な

 生き方があるのです。すべての人は自分は正しく

 生きていると思っています。」

「でも、そう考えなければならないとしたら、私は

 何をたよりに生きていったらいいのか分かりません

 誰が何をしたって正しいことになるわけですから。」

「その通りです。」

「では、何をしてもよろしいのでしょうか」

「いいでしょう。ただしその際、正しいことをして

 いると思ったり、そう言ったりすべきではないでしょう。

 むしろそんなものはないと思い定めるべきですから。

 あなたも何が正しいかで苦しんでおられる。しかし

 そんなものは初めからないのです。

 いや、そんなものは棄てたほうがいいのです。

 正しいことなんかできないと思ったほうがいいかもしれません。

 そう思い覚って(さとって)この世を見てごらんなさい。

 花と風と光と雲があなたを迎えてくれる。正しいもの

 を求めるから、正しくないものの生まれてくる。それを

 まず棄てなさい。」

返信する
人の話を聞くということ・・・ (あらたん)
2005-03-25 15:58:58
エルゼさん、こんにちは。

コメントをありがとうございます。

私は若い頃に「正しさ」というものを捨ててしまいました。

何故かと言いますと、

一つの考えを「正しい」と考えてしまうと、それと正反対の考え方を「間違い」と判断してしまうからです。

一人の人間では偏った考えや狭い考えになり易く、バランスを崩しますから、どうしても反対意見は必要だと思います。

「自分は正しいという思い込みを捨てなさい」と言う考えの人が他にもいる事が分かって嬉しかったです。



でも間違い易い事ですが、この自分の考え方も正しいとは思ってはいけないという事なのです。

辻邦夫さんという人の考えも正しくはない訳です。

辻さんの考えも正しくはないけれども、お話は真剣に聞きますよ、という事で良いと思います。
返信する
打てば響く手ごたえの嬉しさ(笑) (eruze)
2005-03-25 16:11:38
あらたん、早速のコメントをありがとうございます。



>辻邦夫さんという人の考えも正しくはない訳です。



辻さんの「西行花伝」の中で西行が語った言葉なのです。西行についての作品なので、もしかしたら、

これらの言葉は「西行」が語っていた内容を辻さんが

小説内に配したのかもしれません。一人の実在した

求道者の生き方の中でのエピソードの一つなのです。



正しいか正しくないか…それを論じる事そのものが

虚しいのかもしれませんね。



返信する
正しさよりも大切なものは・・・ (あらたん)
2005-03-25 16:35:57
エルゼさん、どうもね~!

前にもエッセイで書きましたけど、

「小学生と中学生ではどちらの意見が正しいのか?」とか、「女性と男性とではどちらが・・・」とか、ありましたよね。



子供には子供らしい考え方があり

女性には女性らしい考え方があり

老人には老人の考え方があり

軍人には軍人の考え方があり

政治家には政治家の考え方があり

宗教家には宗教家の考え方があり・・・

という訳で、どれが正しいという事はない訳です。



私としては「正しい考え方」よりも、「より優れた考え方」、「より美しい考え方」、「より愛情ある考え方」を選びたいと思っているのです。
返信する
誰もがそうだったらいいですね。 (eruze)
2005-03-25 18:07:30
あらたん、お返事をありがとう。



>私としては「正しい考え方」よりも、「より優れた考え方」、「より美しい考え方」、「より愛情ある考え方」を選びたいと思っているのです。



そうですね、そういう考え方っていいなって思います。



私は己の中で吟味しつつ物事を捉えみつめて行きたいと思います。

曖昧にせず、日和見主義にならず、偏らず、

いつも自分なりの意見を持つ習慣を継続したいものですね。



返信する
面白い情報待ってま~す! (あらたん)
2005-03-26 03:01:37
エルゼさん、こんばんは。

私はね、他人の話は聞いて学びたいとは思っているのですけど、「人真似」が嫌いなものですから、エッセイもなるべく他人の言葉を使わずに自分の言葉で表現したり、自分の経験から来る「発見」を書いているつもりですから、それに対して他人がどういう反応を見せるのかが全く分からない訳ですよ。

ですから、同じような考えの人がいる事が分かると非常に嬉しい訳です。

また何か面白い情報があったら、お願いしますね。
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