arata-tokyo-jp's blog(Henry Nagata)

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批判をする人、される人

2004年12月19日 00時57分54秒 | エッセイ
私は人を見た時に大まかにではありますが、二つのタイプに分けて見ているようなクセがあります。
一つは、自分より劣っている人とばかり付き合っていて、「お山の大将」のような人。
「自分が一番」という人です。
自分が他人から批判される事を嫌い、「他人を批判する立場」を楽しんでいる人の事です。

もう一つは、自分が未熟であると自覚し向上心が強い人で、なるべく優秀な人と付き合いたいと考えていて、その為に優秀な人たちから批判を受けても良いと考えている人です。

どんな人であっても、他人を批判するという事には、ある種の快感はあると思います。
批判をしている間は自分自身の欠点を忘れている事も出来ますから・・・。
要するに、「批判する立場を好むタイプ」と「批判される側にいるタイプ」の違いですが、どんな人でもその両方を持っているものですが、人と付き合っていますと、いくらか「精神的傾向」のようなものを感じるのです。
ですから厳密なものではなく、大雑把なものであるという事をお断りしておきます。


では私の事をお話し致しましょう。
私は若い頃から「絶対に評論家にはなりたくない」と考えていました。
音楽を少しかじった人がプロになる事をあきらめますと、何故か他人の音楽に対して批判的になり、欠点ばかりを指摘するようになる人がいるのです。
私はそれを見ているのが嫌だったのです。
私はもしプロの作曲家になれなくても、絶対に世の中の音楽に対し批判などは言いたくはない。
せっかく音楽を勉強したのだから、一生涯音楽の良さを楽しめる人間でありたい、と思っていたのです。
アマチュアのままでいたとしても、「常に物を創り続ける立場」、「人から批判される立場」でいたいと考えていました。

もし批判をしたくなった場合には、それを「言葉」に出して言うのではなく、批判は心の中にしまっておいて、自分の作品をより良く創る事を通して批判をする事に決めたのです。
自分の作品をより良く出来ない人間が、他人を批判するというのは恥ずかしい事です。
「批判」というのは、言葉で他人を「攻撃」するのではなく、自分自身や自分の作品をより良くする事で「表現するものである」と考えているのです。

どんな分野ではあっても、優秀な作品には必ず強力な批判精神が含まれていると思います。
ですから言葉で批判などしなくても良いのです。
言葉を使えば他人を傷付けるだけで終わってしまうかも知れません。


以前有名なシンガー・ソング・ライターがテレビに出演している時に、「音楽家は常に新しい音楽を創らなければならないのだ・・・」などと強気で批判をしていた事があります。
そしてその人の紹介が終り、新曲を歌い始めたのですが・・・
これが一つも新しい音楽ではなかったのです。
自分の音楽性を主張したい時には、「言葉」を使って理解されようとするのではなく、常に「作品」や「行動」によって「表現」されなければ全く意味をなさないのです。
どんな人でも「実行」は遅く、「言葉」は早いので、これには気を付けなければなりません。
また他人の音楽を批判している姿というのは、非常に見苦しいものです。

「見た目」の問題はどうでしょう。
若い頃には私も「批判する側は格好が良く」、「批判される側は格好が悪い」と思い込んでいたのです。
でも「内容」を理解出来るようになって来ますと、一見格好良く?批判しているように見える人の方が、案外間違っている事も多いという事が分かって来ました。
それが分かって来ますと、自分が人から格好悪く?批判をされていても、全く気にならなくなって来たのです。


以前仲の良かった音楽仲間が、色々な事情から性格が変わってしまい、私の音楽だけでなく私の全人格までも徹底的に批判した事があったのです。
私を進歩させる為の建設的な批判と言うよりも、人を傷付ける為の悪質な悪口でした。
彼の言わんとする事を簡単に言いますと、「その程度の音楽で満足しているのか?」、「恥ずかしくはないのか?」という事のようで、世の中の優秀な作曲家と比較して馬鹿にしているようなのです。
今までで一番信用していた友だちだっただけに、その時には私もかなりのショックでしたが、後になればすぐに冷静になりました。

私がそれほどの音楽的才能が無いのにも係わらず、自信を持って生きている事に腹が立ったのではないかと思います。
彼には分からないのです。
前回もお話致しましたが・・・
私が運命的に天から与えられている才能は、非常に小さなものなのです。
この才能に自信を持っている訳ではないのです。
でもこの「才能」というものは、産まれたばかりの「赤ん坊」と同じ様に「天からの授かり物」ですから、これに不満を言わずに大切に育て発展させなければならないと考えているのです。
長所を伸ばして大人に成長させるという事なのです。

私は「亀の歩み」のように僅かながらも少しずつは向上させていますから、それに対して自信を持っているだけなのです。
その程度の自信です。
ですから世の中の優秀な人や作品には謙虚な気持でいるのです。
世の中には「ウサギと亀の競争」のウサギのように、非常に早いスピードで進歩して行く人たちもいますが、私はそれを横目で見ながらマイペースで歩いているのです。


ところが最近になって面白い話を聞くようになりました。
私の若い頃からの音楽仲間に、優秀な人が二人いたのですが・・・
一人は先ほどの批判の彼で、ジャズの教室で一番優秀で18歳でプロになりました。
もう一人はピアノ教室で一番優秀だった女性で先生の自慢の生徒でした。
この女性は今ではライブ活動をしながらCDも出し、どこかの教室でジャズ・ピアノの先生にもなっています。
「ウサギと亀」のウサギの人たちです。
この二人の共通点は「上手い演奏家」という事に非常に強いこだわりを持ってる事と、どちらかというと「コピーによって上達した人たち」という事です。
この人たちが40代半ばを過ぎた今、どのようになっているのでしょうか・・・?

18歳でプロになった彼の方は、その奥さんが言うには「今では音楽の仕事は辞めて、ただのおじさんになってしまった」という事なのです。
では先生ご自慢の優秀なピアニストの方は・・・?
先生が言うには、彼女のピアノは「上手さ」で言えば日本で三本の指に入るほどだ、と言うのです。
でも驚いた事に・・・
上手いピアニストではある・・・でもただそれだけで・・・・感動はしない・・・と言うのです。
これは非常に重要な問題です。
もう一つ付け加えるならば、この二人に共通している事は・・・上手いけれども・・・感動はしない・・・という演奏家たちだったのです。

彼の場合には明らかに「評論家」になってしまったようです。
あまり批判ばかりを言うようになったので、仲間たちは傷付けられて彼から離れて行ってしまったのです。本人は気が付いていないようですが・・・。
女性のピアニストの方は、人柄が冷たいのだそうです。
若い頃には二人とも向上心が強く、また非常に人柄が良かった人たちだったのですが、人生の上で皆苦労をしている内に、残念な事に少しづつ変わってしまったようです。

いくら技術的に「上手い人」ではあっても感動はしないのです。
人は「技術」に感動する訳ではありません。
文学の方では「文は人なり」という言葉がありますが、音楽も同じ様に冷たい性格の人には「冷たい音楽」しか出来ないのです。
「冷たい音楽」や「冷たい文学」に感動する事は出来ません。

私は若い頃に岡本太郎の本を沢山読みましたが、奇麗事の理想論が書かれていたのではありません。
生き方が感動的なのです。
その人格、行動に感動するのです。
上手い絵を描いたから芸術家になれるのではなく、「生き方が芸術的か?」という事が問題なのです。
優秀な人というのは芸術に限らず、感動的な生き方をしている筈です。
私は全ての感動は「人格」や「生き方」から来ると信じているのです。

岡本太郎という人は、フランスでは18歳の時にすでに芸術家として認められて画集まで出している人ですが、日本では「原色を無神経に使う画家」と思われて、ほとんど認められず沢山の批判や攻撃を受けて来た人です。
でも攻撃を受けても一つも格好の悪い人ではありません。
その内容を考えて見れば、攻撃をしている人たちの方が格好が悪いのです。
自分の生きる道を発見している人にとっては、他人からの批判などそれほど気にならなくなるようです。


一つだけ付け加えて終りにしたいと思います。
感動する作品には「オリジナリティー」が不可欠だと思います。
しかし演奏家の場合には(他の分野でも同じだとは思いますが)、どうしても他人のコピーから始めなければ修得出来ない部分がある訳です。これは事実です。
ですから早くプロになりたいという人は、コピー(人真似)をした方が良いのです。(これは、生きがいを感じて一生涯続けられるかどうか、という事とは全く別問題ですが・・・)
でもコピーによって早くプロになれた人が、それによって生活まで出来るようになってしまうと、オリジナリティーの事を真剣に考えるようになるのは、何時の事になるのでしょうか。

友人のピアニストが正直に話してくれた事があります。
一流の音大を卒業して、25歳くらいでクラシックからジャズに転向した場合、今までの「上手いピアニスト」というプライドがありますから、下手な自分のアドリブなどは人前で聞かせる訳にはいかないようなのです。
ですから有名なピアニストのアドリブをコピーして、「格好の良い」ピアノを弾く事になる訳ですが、それが自分自身の音楽ではない事にそれほど気にしない人もいるようです。
「生きがい」や「感動」という事よりも、まず第一番に「格好の良い音楽」という事を考えている人たちがいるという事です。
というよりも、ほとんどの人たちがそう考えているのです。

それでは・・・
「格好の良い言葉は使うが、自分の言葉で正直に本心を話さない人」と、
「格好は悪いが、自分の言葉で正直に本心を話す人」がいた場合には、
どちらの人の話に人々は感動するのでしょうか?

言葉を変えれば・・・
「技術はあるが、人真似ばかりをやっている人」と、
「技術はないが、個性を発揮している人」とでは、
どちらの人に魅力を感じるのでしょうか?

私は若い頃から、ここが一番大事な事だと考えて、流行の「格好の良い音楽」や「エリートの創る音楽」と戦いながら生きて来たのです。
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6 コメント

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共感 (まりあち)
2004-12-19 09:07:15
わたしもね

文章の中に難しいことばは使わない

というのを基本にしてました。

あんまりかしこくみえなくても

いいから温度が伝わればいいなと・・。
返信する
「文は人なり」ですよね~ (arata)
2004-12-19 09:38:00
私が本を読んでいて面白く感じるのは、その本にしか出ていないような「個性的な話」が出て来た時です。



「文章作法」の本などもありますけれども、技術だけ勉強してみても、その人柄に惹かれるものがなければ全く意味をなさないと思います。

ですから私は、格好は悪くても自分の言葉で話したいと思っていますから、下手な文章でも気にせずにエッセイを書き続けているのです。

返信する
正直な気持ち (乃琶)
2004-12-28 07:03:25
arataさん、こんにちは。

私はつい先日も、ピアニストさんの演奏会の感想を書いて自分のサイトにアップしたのですが、

毎回、けっこう苦しみます。。。(^_^;)

批判をしようとか、上手い事書こう、ということではなくて

いかにその時の感動を伝えられるか?演奏家の心の中に入っていけるかな?ということで

自分の力のなさを痛感し苦しむんですね。

そうやってアップしたあとは

自分の予想以上に多くの方が共感し、「よかったよ」と言ってくださり、ホッと胸をなで下ろしすのですが、

中には

「いいですね。毎回感動的なコンサートばかりで」と言う方がいます。その方が言うには

ご自分が行く演奏会は、演奏家のミスが気になったり、楽しめないことが多いと言います。。。

これ・・・多分お分かりかと思うのですが、

この方が私と同じ演奏会に行かれてもきっと

楽しめないと思いますね。いわゆる「批判したい人」なんだと・・・。

私はいつも正直に自分の気持ちを綴っているだけで、

それはまず演奏を聴くときに自分がまっさらでありたい、と言うことに他なりません。

もちろん、いつも演奏会で、ノーミスの人はいませんし、音楽的に未熟な感じ、と言う方もいます。

でもそれを越えて、心に訴えてくるものがあるんですよね。そこなんだと思います。

それが私の心捉えて離さないんです。

そういう私も年に何度か人前で弾かせていただいていますが、

つい「間違ったらどうしよう、暗譜を忘れたら」と

なってしまうんですね。(^_^;)人間の弱いところです。どういう立場でも自分の正直な気持ちを大切に、ということを肝に銘じ直したいと思います。
返信する
何を求めて・・・ (arata)
2004-12-28 08:32:15
乃琶さん、こんにちは。

書き込みありがとうございます。

お話良く分かります。



以前ダンスを習っていた知り合いの女性が、発表会に出るというので、友人を誘って見に行った事があったのです。

私は結構楽しかったものですから、発表会が終わってから、一緒に見に行った友人の話を聞いて驚いてしまいました。

彼が言うには・・・

「みんな下手なダンスだ!」

「発表会というのは、無料で見てもらうのが常識なのに、こんな下手なダンスに4000円は高すぎる」・・・という訳です。



私はライブやコンサートに行く時には、「技術的な上手さ」を求めて見に行く訳ではありません。

上手い下手には関係なく、「自分自身に何か良い刺激や、良い影響を与えてくれるものは無いかな~」という気持ちで期待して行くのです。

一流の演奏家やミスタッチの無い完璧な演奏を聴きたいのであれば、レコード店に行ってCDでも買って聴いていれば良いのです。



確かに人それぞれの感受性は違うものではありますが、私としましては「ミスタッチの有る、無し」で「感動する、しない」が決まるとは思っていないのです。

「美しさ」とか「感動」というものは、そういう問題とは次元が違うような気がするのです。

そして年を取るほどに、その気持ちは強くなって来るのです。

返信する
おはようございます! (eruze)
2004-12-30 07:13:35
私も乃琶さんやあらたさんの感覚と近いものが

あるので嬉しくなって書かせて戴いております。

私の最近のハラハラは…(苦笑)云わずとしれたメルマガです。



ミスタッチがないように…と何度も推敲しているのに

時に「てにをは」を間違えていたりと不完全な文章を

配信している自分が許せなく意気消沈してしまう

なんてザラなんです…((_ _。)・・・シュン

ミスをした本人・当人が一番辛いものです。

それでもご存知なのに「え…気にならなかったわよ」

とフォローしてくださる温かい読者の皆様に支えられ今まで

歩けて参りました。



現役時代(学生時代)にステージでピアノやエレクトーンを演奏

していた時は夢中でステージの構成・演出なども兼ねて

いたので「リハ通りにこなす」事に集中していて

あまりミスがなかったように記憶してます。

(あ、でもこれはクラシックのステージはないので

 アドリブなどその場で弾くのでミスも何もないわけでしたね…(^^;)



怖くなってしまったら進まなくなる…。

萎縮してしまう事の方が問題ですものね。



批判を恐れずに(大苦笑)、発言する場合も

時には必要ですので(批判というのは良く読んで下さっている証拠だと思うことにして…)

恥を重ねながらそれでも私はメルマガを配信しております。



…なんだか纏まらなくなってしまいましたが、

そういう精神を支柱にしつつ謙虚さも勿論忘れずに

進みたいなと思っております。

返信する
ごめん、ごめん! (arata)
2005-01-02 13:40:42
エルゼさん、こんにちは。

お返事が遅くなってしまってごめんなさい。



この間エルゼさんのお話にコメイントを入れようと考えていたら、もう一つエッセイが書けそうなくらい長くなりそうだったのですよ。

それでエッセイの方でお返事をしようと思っていたものですから、延び延びになってしまいました。

「表現と内容」とか「技術と内容」についてのエッセイになりますが、これは私にとっては大切なテーマの一つですので、近々UPしたいと思っています。
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