今回は「利口な人」と「賢い人」の違いについてのお話ですが、この二つの言葉の学術的な意味での違いではありません。 あくまでも私の個人的な区別の仕方のお話ですので、初めにお断りしておきます。
辞書で違いを調べてみましても、二つとも「頭の良い人」という意味ですから、それほどの違いはありませんが、「利口」の方は子供に対しての言葉として「お利口さん」とか「お利口にしている」という表現があるという事と、「利巧」とも書いて「巧み」(技術的?)の意味がありそうな事くらいです。
さて本題に入ります。
長いお話になるといけませんので、結論から先に言ってしまいましょう。
私は個人的に「自他共に認められているような頭の良い人」や「自分自身を頭が良いと思い込んでいる人」の事を「利口な人」と呼び、「自分は馬鹿であるという事に目覚めている人」の事を「賢い人」と呼んで分けているのです。
確か遠藤周作の著書だったと思いますが、その中に「自分の考えは間違っている・・・と気が付いた時・・・その時から人間は大人になり始める」というような事が書かれていましたが、それと同じ様な意味になります。
私が世の中の人たちを見た時に感じます事は、「自分は利口である」とか「自分は正しい」と思い込んでいる人たちがいかに多いか、という事です。
つまり「自分は利口で正しく、他人は馬鹿で間違っている」という思い込みです。
・
以前ある工場でアルバイトをしていた時の事ですが・・・。
そこは製造課であった為に、普段は高卒の人や高専卒の社員たちとパートやアルバイトの人たちが働いていたのですが、或る時技術課の人が来た事があったのです。
私はその大学卒の技術課の人と親しく話をするようになった時に、試しにこんな事を聞いてみたのです。
「正直な話、大学出の人というのは高卒の人を見た時に、馬鹿にしたような気持になるものなの?」
そうしたら、その人が言うには「そうですね~、正直言うとそういう風に見ている時がありますねー」と言うのです。
この人は非常に正直で人の良い人でしたから、そうは言っても製造課の人たちとは調和して仲良く付き合っていたのですが、中にははっきりとした言葉で製造課の人たちを馬鹿にする技術課の人たちもいるのです。
私が何故そんな質問をしたのかと言いますと、何年か前に次のような話を製造課の人から聞いていたからです。
製造課の社員の一人がこう言うのです。
「大学出の奴らは馬鹿だ。俺たちみたいに高卒や高専卒の人間というのは、人生にハッキリとした目的意識を持って働いている。ところが大学出の奴らは、目的もハッキリしないまま大学を受験して、入学してから目的を失って五月病になったり、大学を卒業しても将来の目的が定まらずフリーターになる人間が多い。だから大学出の奴らは馬鹿だ」
要するに大学卒は高卒を馬鹿にし、高卒は大学卒を馬鹿にしていたという訳です。
こんな話もあります。
長年ホステスをやって来た女性が言うには・・・
「大学生って何も知しらないのよー。こんな事も知らないのよー」などと、いかにも馬鹿にしているという調子で話すのです。
もしこれを大学生に聞かせたら、「ホステスさんの方こそ何も勉強していない」と言うのではないでしょうか?
これらの事は皆自分の知っている「得意な分野」の事だけで判断しているからです。
水商売のホステスさんが得意な事を、大学生が得意な筈はありません。
私は作曲の仕事を始めたのが遅く、40歳を過ぎてからでしたので、その間フリーター生活を15年以上はやっていましたから色々な職場を経験していますが、その時に「人が人を馬鹿にしている光景」を何度も見て驚いた記憶があります。
私がそういう時に感じました事は、人間というものは社会に出た時に、自分の弱さを見せずに強く生きていかなければならない。
その為には例えば自分が肉体労働の仕事をしている事にコンプレックスを持っている人がいたとしたら、それを他人に悟られないようにする為には頭脳労働?の人の身体の弱さを攻撃し、自分の体力を誇示しようとするのではないだろうか・・・?
人間というのは、自分の弱さを隠す為に他人を馬鹿にするのではないだろうか・・・という事でした。
・
この例に出した人たちというのは、私の言葉では「利口な人たち」の部類に入る人たちです。
自分自身を「利口な人」、「自分の考えは正しい」と思い込んでいるのが特徴です。
ではここで私自身の事をお話致しましょう。
私は30代の半ばを過ぎた頃からだったと思いますが、きっかけは忘れましたが、「自分がいかに馬鹿な人間か」という事に気が付き始めたのです。
過去の記憶が何かの拍子にふと蘇り、「何で自分はあの時に、あんな馬鹿な事をしてしまったのだろう」という後悔の念に何度も苦しみました。
非常に恥ずかしい記憶が、何の前触れもなく蘇る事が多くなって来たのです。
この頃の私は「自分が馬鹿である」という事に気が付く度に、非常に恥ずかしく非常に苦しい感覚に襲われていたと記憶しています。
ところが面白い事に、「自分が馬鹿である」という事に気が付く度に自信を失って弱くなって行ったのか?というと、案外そうでもないのです。
逆に自分の馬鹿さ加減に気が付くに従って、何故か自分自身に対して自信が満ちて来る事に気が付き始めました。
自分が目が覚めて来る事に対する快感と自信のようです。
自分の「欠点」というものは、他人から指摘されると非常に不愉快なものですが、不思議な事に自分で発見すると快感を感じるようになって来るようです。
そのような目で世の中を眺めてみますと、世の中には私と同じ様に案外馬鹿な人たちが多い、という事にも気が付いたのです。
自分だけではなかったのです。
つまり「自分は利口ではない」、「自分は馬鹿である」と目が覚めて来る事によって、僅かにではありますが、自分が少しずつ賢くなって来ているという実感を感じるようになって来たのです。
・
さて、「人間は弱さに成り切ると、逆に強くなる」という言葉があります。「背水の陣」や「窮鼠ネコをかむ」という言葉もあります。
以前「孫子」という兵法の本を読んだ時に、こんな話が載っていました。
確かな記憶ではないのですが・・・
「少数の敵を攻撃する時には、四方から攻めてはいけない」
「必ず一方を空けて三方から攻める」
わざと一方を空けて「逃げ道」を作ることによって、敵を弱気にさせる為です。
もし四方から攻めると逃げ道がない為に、敵は覚悟して必死に戦うようになり味方の被害が大きくなるからです。
西洋にも東洋にも似たような実話があって・・・
少数の部隊が多数の敵に追い詰められた時に、目の前に川があり橋ががかかっている。
皆その橋を早く渡って逃げたいと焦っている心境の時に、その中の大将がわざとその橋を爆破して逃げ道を無くしてしまったのです。
その結果、逃げ場を失った事で皆覚悟を決めて、攻めて来る多数の敵と戦い、その不利な戦いに勝利してしまったという事です。
・
また誰にでも経験のある事ではないかと思いますが、自分の音楽的才能の無さを自覚した事があります。当然の事ですが・・・。
この自分の才能に対して「自信を無くす」という事は、結構深刻な問題なのです。
例えば Jazz の演奏家の世界というのは、非常に突っ張って自信満々に強気で生きている人たちがいますが、私の友人の女性ピアニストは「女に Jazz が出来る訳が無い」と言われるような厳しい環境でしごかれて、ライブハウスのトイレの中で泣きながら仕事をしていたと言っていました。
自信を無くして弱気になっていては出来ない仕事なのです。
でも私の経験では、自分の才能の無さを発見しても大丈夫なのです。 私はその結果、こう考えるようになりました。
私が運命的に天から与えられた音楽的な才能は非常に小さなものではありますが、それは「天からの授かり物」ですから、それに対して不満を言うのではなく、その与えられた才能を少しでも育て、向上させて生きて行けば良いのではないか。
これを実現した時には、自分自身に対して自信を持っても良いのではないだろうか。
「自分には才能がある」と思い込んで自信を持つのではなく、「自分には才能は無いが向上心はあるぞ!」というような自信は持っていても良いのではないだろうか、という事です。
例えば、新婚夫婦に赤ちゃんが誕生した時には、その子がどんな子であろうとも親というものは大切に大切に育てるでしょう。
それと同じように才能も「天からの授かり物」であると気が付き、例え小さな才能であっても大切に育て上げなければならないと、考えるようになった次第です。
スポーツに於いても、自分がオリンピックでメダルを取れる様な選手ではないと気が付いてもガッカリする事はなく、各人がそれぞれに与えられた能力を育て開発して行けば良いという事です。
またそこに自分の生きる事の「使命感」も生じて来る事になると思うのです。
という訳で、今回のお話は・・・
「自分を馬鹿だと自覚すると、賢くなる」
「自分の弱さを覚悟すると、強くなる」
「自分の才能の無さに気が付くと、使命感が生じ、勉強をするようになる」
というような事をお伝えしたかった訳なのです。
お退屈さま・・・m(__)m
<追記> 2021.01.14
16年間ぶりに復活させたエクラ・サイト
↓
「arata-tokyo-jp」
本サイト
↓
「Henry Nagata」aratan.iza-yoi.net
辞書で違いを調べてみましても、二つとも「頭の良い人」という意味ですから、それほどの違いはありませんが、「利口」の方は子供に対しての言葉として「お利口さん」とか「お利口にしている」という表現があるという事と、「利巧」とも書いて「巧み」(技術的?)の意味がありそうな事くらいです。
さて本題に入ります。
長いお話になるといけませんので、結論から先に言ってしまいましょう。
私は個人的に「自他共に認められているような頭の良い人」や「自分自身を頭が良いと思い込んでいる人」の事を「利口な人」と呼び、「自分は馬鹿であるという事に目覚めている人」の事を「賢い人」と呼んで分けているのです。
確か遠藤周作の著書だったと思いますが、その中に「自分の考えは間違っている・・・と気が付いた時・・・その時から人間は大人になり始める」というような事が書かれていましたが、それと同じ様な意味になります。
私が世の中の人たちを見た時に感じます事は、「自分は利口である」とか「自分は正しい」と思い込んでいる人たちがいかに多いか、という事です。
つまり「自分は利口で正しく、他人は馬鹿で間違っている」という思い込みです。
・
以前ある工場でアルバイトをしていた時の事ですが・・・。
そこは製造課であった為に、普段は高卒の人や高専卒の社員たちとパートやアルバイトの人たちが働いていたのですが、或る時技術課の人が来た事があったのです。
私はその大学卒の技術課の人と親しく話をするようになった時に、試しにこんな事を聞いてみたのです。
「正直な話、大学出の人というのは高卒の人を見た時に、馬鹿にしたような気持になるものなの?」
そうしたら、その人が言うには「そうですね~、正直言うとそういう風に見ている時がありますねー」と言うのです。
この人は非常に正直で人の良い人でしたから、そうは言っても製造課の人たちとは調和して仲良く付き合っていたのですが、中にははっきりとした言葉で製造課の人たちを馬鹿にする技術課の人たちもいるのです。
私が何故そんな質問をしたのかと言いますと、何年か前に次のような話を製造課の人から聞いていたからです。
製造課の社員の一人がこう言うのです。
「大学出の奴らは馬鹿だ。俺たちみたいに高卒や高専卒の人間というのは、人生にハッキリとした目的意識を持って働いている。ところが大学出の奴らは、目的もハッキリしないまま大学を受験して、入学してから目的を失って五月病になったり、大学を卒業しても将来の目的が定まらずフリーターになる人間が多い。だから大学出の奴らは馬鹿だ」
要するに大学卒は高卒を馬鹿にし、高卒は大学卒を馬鹿にしていたという訳です。
こんな話もあります。
長年ホステスをやって来た女性が言うには・・・
「大学生って何も知しらないのよー。こんな事も知らないのよー」などと、いかにも馬鹿にしているという調子で話すのです。
もしこれを大学生に聞かせたら、「ホステスさんの方こそ何も勉強していない」と言うのではないでしょうか?
これらの事は皆自分の知っている「得意な分野」の事だけで判断しているからです。
水商売のホステスさんが得意な事を、大学生が得意な筈はありません。
私は作曲の仕事を始めたのが遅く、40歳を過ぎてからでしたので、その間フリーター生活を15年以上はやっていましたから色々な職場を経験していますが、その時に「人が人を馬鹿にしている光景」を何度も見て驚いた記憶があります。
私がそういう時に感じました事は、人間というものは社会に出た時に、自分の弱さを見せずに強く生きていかなければならない。
その為には例えば自分が肉体労働の仕事をしている事にコンプレックスを持っている人がいたとしたら、それを他人に悟られないようにする為には頭脳労働?の人の身体の弱さを攻撃し、自分の体力を誇示しようとするのではないだろうか・・・?
人間というのは、自分の弱さを隠す為に他人を馬鹿にするのではないだろうか・・・という事でした。
・
この例に出した人たちというのは、私の言葉では「利口な人たち」の部類に入る人たちです。
自分自身を「利口な人」、「自分の考えは正しい」と思い込んでいるのが特徴です。
ではここで私自身の事をお話致しましょう。
私は30代の半ばを過ぎた頃からだったと思いますが、きっかけは忘れましたが、「自分がいかに馬鹿な人間か」という事に気が付き始めたのです。
過去の記憶が何かの拍子にふと蘇り、「何で自分はあの時に、あんな馬鹿な事をしてしまったのだろう」という後悔の念に何度も苦しみました。
非常に恥ずかしい記憶が、何の前触れもなく蘇る事が多くなって来たのです。
この頃の私は「自分が馬鹿である」という事に気が付く度に、非常に恥ずかしく非常に苦しい感覚に襲われていたと記憶しています。
ところが面白い事に、「自分が馬鹿である」という事に気が付く度に自信を失って弱くなって行ったのか?というと、案外そうでもないのです。
逆に自分の馬鹿さ加減に気が付くに従って、何故か自分自身に対して自信が満ちて来る事に気が付き始めました。
自分が目が覚めて来る事に対する快感と自信のようです。
自分の「欠点」というものは、他人から指摘されると非常に不愉快なものですが、不思議な事に自分で発見すると快感を感じるようになって来るようです。
そのような目で世の中を眺めてみますと、世の中には私と同じ様に案外馬鹿な人たちが多い、という事にも気が付いたのです。
自分だけではなかったのです。
つまり「自分は利口ではない」、「自分は馬鹿である」と目が覚めて来る事によって、僅かにではありますが、自分が少しずつ賢くなって来ているという実感を感じるようになって来たのです。
・
さて、「人間は弱さに成り切ると、逆に強くなる」という言葉があります。「背水の陣」や「窮鼠ネコをかむ」という言葉もあります。
以前「孫子」という兵法の本を読んだ時に、こんな話が載っていました。
確かな記憶ではないのですが・・・
「少数の敵を攻撃する時には、四方から攻めてはいけない」
「必ず一方を空けて三方から攻める」
わざと一方を空けて「逃げ道」を作ることによって、敵を弱気にさせる為です。
もし四方から攻めると逃げ道がない為に、敵は覚悟して必死に戦うようになり味方の被害が大きくなるからです。
西洋にも東洋にも似たような実話があって・・・
少数の部隊が多数の敵に追い詰められた時に、目の前に川があり橋ががかかっている。
皆その橋を早く渡って逃げたいと焦っている心境の時に、その中の大将がわざとその橋を爆破して逃げ道を無くしてしまったのです。
その結果、逃げ場を失った事で皆覚悟を決めて、攻めて来る多数の敵と戦い、その不利な戦いに勝利してしまったという事です。
・
また誰にでも経験のある事ではないかと思いますが、自分の音楽的才能の無さを自覚した事があります。当然の事ですが・・・。
この自分の才能に対して「自信を無くす」という事は、結構深刻な問題なのです。
例えば Jazz の演奏家の世界というのは、非常に突っ張って自信満々に強気で生きている人たちがいますが、私の友人の女性ピアニストは「女に Jazz が出来る訳が無い」と言われるような厳しい環境でしごかれて、ライブハウスのトイレの中で泣きながら仕事をしていたと言っていました。
自信を無くして弱気になっていては出来ない仕事なのです。
でも私の経験では、自分の才能の無さを発見しても大丈夫なのです。 私はその結果、こう考えるようになりました。
私が運命的に天から与えられた音楽的な才能は非常に小さなものではありますが、それは「天からの授かり物」ですから、それに対して不満を言うのではなく、その与えられた才能を少しでも育て、向上させて生きて行けば良いのではないか。
これを実現した時には、自分自身に対して自信を持っても良いのではないだろうか。
「自分には才能がある」と思い込んで自信を持つのではなく、「自分には才能は無いが向上心はあるぞ!」というような自信は持っていても良いのではないだろうか、という事です。
例えば、新婚夫婦に赤ちゃんが誕生した時には、その子がどんな子であろうとも親というものは大切に大切に育てるでしょう。
それと同じように才能も「天からの授かり物」であると気が付き、例え小さな才能であっても大切に育て上げなければならないと、考えるようになった次第です。
スポーツに於いても、自分がオリンピックでメダルを取れる様な選手ではないと気が付いてもガッカリする事はなく、各人がそれぞれに与えられた能力を育て開発して行けば良いという事です。
またそこに自分の生きる事の「使命感」も生じて来る事になると思うのです。
という訳で、今回のお話は・・・
「自分を馬鹿だと自覚すると、賢くなる」
「自分の弱さを覚悟すると、強くなる」
「自分の才能の無さに気が付くと、使命感が生じ、勉強をするようになる」
というような事をお伝えしたかった訳なのです。
お退屈さま・・・m(__)m
<追記> 2021.01.14
16年間ぶりに復活させたエクラ・サイト
↓
「arata-tokyo-jp」
本サイト
↓
「Henry Nagata」aratan.iza-yoi.net
凄い心理を巧みに利用した戦法ですね。
私んちなんかもう逃げ場がなくて
覚悟を決めなきゃいけないような
様相を呈しているのでその話は
説得力を持って聞けます。
そういえば活路はいつも
絶体絶命の直後に開いてきたように
思います。
なんだか大きな力を頂いたような気がしますね。
後になると、あの時苦しんでおいて良かったな~と思ったりする訳です。
理屈では理解出来ない事ですから、経験というのは貴重な財産ですよね。
どんな状況においても愉しく生きられるよね…と
思っている私ですので(笑)、あらたさんのエッセイ
スッーとBossanovaのように心の奥に沁み込みます。
(今、小野リサの「星の散歩」聴いているの♪)
師走に入り、やはりお忙しいのでしょうか?
どうか、お身体をご自愛なさり豊かで幸せな
年末・年始をご家族でお過ごしくださいませ。
えるぜ拝
最近音楽の方に夢中になっていて、中々エッセイが書けませんが、書こうと思っている題材はありますから、その内に書きますね。
もうすぐ今年も終りに近づいていますけど、良いクリスマスとお正月を迎えたいものですね。