前回私が書いたエッセイ、「何故、私がお墓参りをするようになったのか・・・」には、誤解を生じやすい部分があったらしく、私に対して「偽善者」扱いするようなコメントが入りました。
大分以前にも同じようなコメントが入った事がありましたが、その時にも丁重にお答えしましたけれども、今回も悪質なものではないと仮定して、削除せずに丁重にお答えする事に致しました。
とても大切な事を含んでいると判断したからです。
以下、そのコメントと私の追加分を是非お読み下さい。
・
・
「感想」 (ペンネーム・疑問さん) 2006-10-17
気分を害されるかもしれませんが、親友だからと言って、お墓参りに行き、亡くなった方とコミュニケーションをとることだけが、彼女の供養になるとは思えません。
奥様のお墓参りが形式的だったと書いてありましたが、「墓参り」だからと亡くなった方に問いかけるのは、かえってうそ臭く、演技的で形式的に感じてしまいます。
人それぞれ、心の中になくなった方の思い出があって、時に自分の心の中で問いかけたり思ったりすることがあると思います。
人それぞれの供養の仕方があっていいんではないでしょうか?
それは宗教的な観念の違いにもつながってくると思います。
それに奥様が亡くなった親友にとってどんな存在だったかは、当人同士にしか分からないものがあると思います。
なんだか読んでいて、偽善を感じてしまいました。
・
・
以下、このコメントに対する私の解説です。
「疑問さんへ・・・お答え致します」(arata-tokyo-jp) 2006-10-18
疑問さん、はじめまして、こんにちは。
コメントをありがとうございます。
本来私のブログには、私のエッセイに「共感」をした方がコメントをくれるものと考えていますが、あなたのご批判は悪質なものではないと判断し、削除せずに丁寧にお答えしたいと思います。
> 気分を害されるかもしれませんが、親友だからと言って、お墓参りに行き、
> 亡くなった方とコミュニケーションをとることだけが、彼女の供養になるとは思えません。
そのご指摘は当然の事と思います。
お墓参りに関しては、日本の風習(一つの形式)にすぎません。
ですから今回は、世間の常識から見て「時期はずれ」であってもお墓参りに行ったのです。
形式には囚われていない、という意味です。
> 奥様のお墓参りが形式的だったと書いてありましたが、
> 「墓参り」だからと亡くなった方に問いかけるのは、
> かえってうそ臭く、演技的で形式的に感じてしまいます。
私のお墓参りの仕方は、「幼なじみ」やいつも会えない「友人」に会えた時の楽しみを味わうような雰囲気なのです。
あなたが100%勘違いをされて、私のこのような態度を「うそ臭く、演技的で形式的」と感じるという事は、もしかすると、あなたは相当お若い方ではないかとお察し致します。
20代~30代半ばの方で、ただ一つの価値観や宗教団体に熱中している方か、又はその逆で「宗教嫌い」、「形式嫌い」の方のような気が致します。
もし間違っていたらごめんなさい。
私のエッセイでは、「常識論」や「正論」や「理想論」などを書く気は全くありません。
ほとんど「経験談」に近いものです。
「こんな経験をしました」、「こんな事を感じました」といったようなものです。
ですから経験の無い方には、年齢に関係なく理解出来ないものなのです。
特にお若い方には理解出来ない話が多いと思います。
> 人それぞれ、心の中になくなった方の思い出があって、
> 時に自分の心の中で問いかけたり思ったりすることがあると思います。
> 人それぞれの供養の仕方があっていいんではないでしょうか?
> それは宗教的な観念の違いにもつながってくると思います。
あなたのお考えの根本に間違いがあるとは思いません。
私の母親は80歳を過ぎて足を悪くしていますから、電車を乗り継いでお寺に行く事は難しいですから、実家にある小さな仏壇で手を合わせています。
仏壇にお線香を焚いて手を合わせるのも、一つの形式ですが、本来は何の形式もいらないのではないかと感じる事もあります。
「形式」というものは、自分の「心」や「魂」を、自分なりに「表現」したものにすぎません。
どのような表現も自由なものだと思います。
どのような宗教観を持っていても差し支えないと思います。
しかし、表面的な「形式」だけで、肝心の「心」や「魂」が入らなければ、その形式は「中身の無い形式」となり、その時に偽善や醜い世界が現れてくるのです。
また、「心」や「魂」があるのであれば、それは何らかの「形」や「行動」として現れてくるものだと思います。
言葉ばかりで「行動に表さない人間」を、私は信用していません。
私が何処にいる時でも、「ふと」思い出したように「手を合わせる」ような事があるのも、「感謝の気持ち」から自然にそうなるのであって、日常的な事なのです。
とは言っても、何か良い事があったから手を合わせる・・・という訳ではありません。
ですから、お墓参りに限った事ではないのです。
「演技や形式や偽善」などという事とは、全く「次元」の異なる話なのです。
ただし、他人の見ている前では手を合わせるような真似は致しません。
その時には、心の中で手を合わせています。
世の中には、自分が如何にも「信心深い人間である」という事を、これ見よがしに他人に見せ付けるようにする方たちもおられますが、私はそういう事を好みません。
ですから、「心」や「魂」はあっても、「形」や「行動」には現さない場合があっても良いのではないか・・・というのは、こういう場合の事なのです。
「心」も「魂」も無く、ただ「ふと」思い出しては直ぐに忘れて、「行動」にも現れない・・・というのとは次元が違うのです。
ところで、私は何処の宗教団体にも所属していない自由人ですが、このような内容の話は、本来「宗教的な話」なのでしょうか?
それは、ただ単に「人と人との心の触れ合い」、「魂の触れ合いの話」のような気もするのですが・・・
あなたが私のエッセイを勘違いされたのは、ただ一つの形式にすぎない「お墓参り」という「表面的な言葉」に囚われてしまったからではないでしょうか。
> それに奥様が亡くなった親友にとってどんな存在だったかは、
> 当人同士にしか分からないものがあると思います。
全く、その通りだと思います。
それに女房の親友が亡くなったのは、もう25年以上も前の事ですから、女房自身も細かい事はほとんど忘れている事でもあります。
ですから、あなたのご指摘と全く同じように、
私と女房が毎年2人で仲良くお墓参りをしている心境は、当人同士でなければ分からないものだと思います。
また、女房と親友と私の3人が、どんな心の交流をしているのかも、あなたには分からない筈なのです。
似たような経験のある方のみが理解出来るものだと思います。
しかし、あなたはそれを「分かったつもり」になっているのではないでしょうか?
> なんだか読んでいて、偽善を感じてしまいました。
他人に対して、「この人は、こんな人ではないだろうか?」と心の中で想像する事は自由な事ですから、あなたが私に対して「偽善者」と感じる事は、正直な感想であるならば仕方のない事です。
しかし、「感想」と「事実」とは違う場合が多い、という事は理解して頂きたいと思います。
事実かどうかも分からない「ただの感想」を、言葉に出してしまう時には、相手に対して失礼にならないように、慎重にご配慮願いたいと思います。
私が考えている「亡くなった方に対する供養」というのは・・・
亡くなった方の事を、(生きている方と同じように)愛情を持って、何時までも忘れない事だと考えています。
< 追記 > 2006.10.21
このエッセイの内容には、まだ誤解を生じやすいものがあるかもしれませんので、もう少しだけ付け加えておきます。
女房の親友を仮に「K子さん」としてお話し致します。
私にとっては、K子さんは単に女房の親友というものではないのです。
それを理解して頂だかないと、
「女房の友人の事にまで干渉して、うるさく説教をする亭主」
「女房の行動を常に監視して束縛する亭主」・・・というような印象を与えてしまう事でしょう。
もう一つは、私の女房は亭主の話を素直によく聞く「お人形さん」のような「従順な奥様」という印象を与えたかも知れません。
私は家族の事や自分の苦労話などは、ネットでは書く気がありませんから、これは仕方のない事だと思います。
・
先ず、K子さんについてですが・・・
心を病んでいて、登校拒否や摂食障害を経験している事。
友人や家族にも理解されなくて孤独であった事。
絵が好きで、そちらの方面に進みたいと考えていた事。
これらの状況が私と全く似たような経験をしていたという事です。
また私が自殺を考えたのも小学生の時と高校生の時なのです。
以前のエッセイ、「学校恐怖症とは何でしょう?」にも書きましたが、最近ではごく普通の社会現象となった「不登校」とは違い、昔は全くの孤独でした。
つまり私には、K子さんに対して、同じような経験をした人間でなければ分からない「共感」というものがあるのです。
K子さんが女房に宛てた数通の手紙からは、「助けて欲しい、誰か助けて欲しい」という悲痛な叫び声が聞こえてくるのを感じたのです。
しかし、女房にはこの「共感」というものが無かった訳です。
まあ、子供の頃の事ですから、仕方のない事ではありますが・・・
私は考えました。
何故、同じような経験をしていながら、K子さんは自殺をして、私は生きているのだろうか?
これには色々な事情はあるとは思いますが、その大きな原因の一つとして、私の両親がいわゆる「放任主義」で、私が絵や音楽方面に進む事に対して、全く反対をしなかった事があると思います。
実際に私が救われたのは(つまり現在でも生きているのは)、「音楽」などをやって来れたからなのです。
そこでは当然、共感し合える友人も出来る訳です。
「作曲の喜び」、「創作の喜び」というものは、「孤独にも耐えられる」ものだと思います。
というよりも逆に、創作活動は「孤独な作業」ですから、孤独になれない人には創作活動は無理なのではないかとも思っています。
共同作業で創作をするような場合も多いですが、必ず「孤独の作業」が重要な訳です。
私の知り合いの女性ピアニストが言っていました。
「私にピアノがなかったら死んでいた」・・・と。
これには私も共感出来ました。
音楽というものは、そういうものです。
一般の人たちから見れば、一見楽しく華やかに見える世界かもしれませんが・・・
これは、他の分野の方たちにも、同じような考えの方も多いと思います。
K子さんの場合には、ご親族に優秀な方たちが多かった為に、大学進学などの一般的コースに「過度の期待」をかけられていたそうです。
K子さんも、それに応えようとして頑張っていたようですが、彼女が家族や友人たちに助けられて、もう少しでも長く生き延びてくれたなら・・・
それを思うと、創作の大きな喜びを得られる前に亡くなってしまった彼女の事を、私は常々残念に思っていた訳です。
もし、K子さんが今でも生きていたら、女房と私と3人で楽しい会話が出来たのではないかと、女房とよく話すのです。
・
次に女房の事についてですが・・・
私の女房というのは、普段はほとんど私の言う事を聞いてくれない人なのですが、お墓参りに関して、私の言う事に対して素直に従ったのは、やはり女房の心の中に「親友として、K子さんに対して何もしてあげられなかった」・・・という後悔の念が残っていて、それに目が覚めたからではないかと思います。
女房の話では、「自分も父親の仕事の関係で転校が多く、かなり悩んでいたけれども、友人に恵まれたので不登校にならずにすんだ」・・・という事です。
さて、これで少しは私とK子さんと女房の3人の心の交流が伝わったでしょうか・・・
大分以前にも同じようなコメントが入った事がありましたが、その時にも丁重にお答えしましたけれども、今回も悪質なものではないと仮定して、削除せずに丁重にお答えする事に致しました。
とても大切な事を含んでいると判断したからです。
以下、そのコメントと私の追加分を是非お読み下さい。
・
・
「感想」 (ペンネーム・疑問さん) 2006-10-17
気分を害されるかもしれませんが、親友だからと言って、お墓参りに行き、亡くなった方とコミュニケーションをとることだけが、彼女の供養になるとは思えません。
奥様のお墓参りが形式的だったと書いてありましたが、「墓参り」だからと亡くなった方に問いかけるのは、かえってうそ臭く、演技的で形式的に感じてしまいます。
人それぞれ、心の中になくなった方の思い出があって、時に自分の心の中で問いかけたり思ったりすることがあると思います。
人それぞれの供養の仕方があっていいんではないでしょうか?
それは宗教的な観念の違いにもつながってくると思います。
それに奥様が亡くなった親友にとってどんな存在だったかは、当人同士にしか分からないものがあると思います。
なんだか読んでいて、偽善を感じてしまいました。
・
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以下、このコメントに対する私の解説です。
「疑問さんへ・・・お答え致します」(arata-tokyo-jp) 2006-10-18
疑問さん、はじめまして、こんにちは。
コメントをありがとうございます。
本来私のブログには、私のエッセイに「共感」をした方がコメントをくれるものと考えていますが、あなたのご批判は悪質なものではないと判断し、削除せずに丁寧にお答えしたいと思います。
> 気分を害されるかもしれませんが、親友だからと言って、お墓参りに行き、
> 亡くなった方とコミュニケーションをとることだけが、彼女の供養になるとは思えません。
そのご指摘は当然の事と思います。
お墓参りに関しては、日本の風習(一つの形式)にすぎません。
ですから今回は、世間の常識から見て「時期はずれ」であってもお墓参りに行ったのです。
形式には囚われていない、という意味です。
> 奥様のお墓参りが形式的だったと書いてありましたが、
> 「墓参り」だからと亡くなった方に問いかけるのは、
> かえってうそ臭く、演技的で形式的に感じてしまいます。
私のお墓参りの仕方は、「幼なじみ」やいつも会えない「友人」に会えた時の楽しみを味わうような雰囲気なのです。
あなたが100%勘違いをされて、私のこのような態度を「うそ臭く、演技的で形式的」と感じるという事は、もしかすると、あなたは相当お若い方ではないかとお察し致します。
20代~30代半ばの方で、ただ一つの価値観や宗教団体に熱中している方か、又はその逆で「宗教嫌い」、「形式嫌い」の方のような気が致します。
もし間違っていたらごめんなさい。
私のエッセイでは、「常識論」や「正論」や「理想論」などを書く気は全くありません。
ほとんど「経験談」に近いものです。
「こんな経験をしました」、「こんな事を感じました」といったようなものです。
ですから経験の無い方には、年齢に関係なく理解出来ないものなのです。
特にお若い方には理解出来ない話が多いと思います。
> 人それぞれ、心の中になくなった方の思い出があって、
> 時に自分の心の中で問いかけたり思ったりすることがあると思います。
> 人それぞれの供養の仕方があっていいんではないでしょうか?
> それは宗教的な観念の違いにもつながってくると思います。
あなたのお考えの根本に間違いがあるとは思いません。
私の母親は80歳を過ぎて足を悪くしていますから、電車を乗り継いでお寺に行く事は難しいですから、実家にある小さな仏壇で手を合わせています。
仏壇にお線香を焚いて手を合わせるのも、一つの形式ですが、本来は何の形式もいらないのではないかと感じる事もあります。
「形式」というものは、自分の「心」や「魂」を、自分なりに「表現」したものにすぎません。
どのような表現も自由なものだと思います。
どのような宗教観を持っていても差し支えないと思います。
しかし、表面的な「形式」だけで、肝心の「心」や「魂」が入らなければ、その形式は「中身の無い形式」となり、その時に偽善や醜い世界が現れてくるのです。
また、「心」や「魂」があるのであれば、それは何らかの「形」や「行動」として現れてくるものだと思います。
言葉ばかりで「行動に表さない人間」を、私は信用していません。
私が何処にいる時でも、「ふと」思い出したように「手を合わせる」ような事があるのも、「感謝の気持ち」から自然にそうなるのであって、日常的な事なのです。
とは言っても、何か良い事があったから手を合わせる・・・という訳ではありません。
ですから、お墓参りに限った事ではないのです。
「演技や形式や偽善」などという事とは、全く「次元」の異なる話なのです。
ただし、他人の見ている前では手を合わせるような真似は致しません。
その時には、心の中で手を合わせています。
世の中には、自分が如何にも「信心深い人間である」という事を、これ見よがしに他人に見せ付けるようにする方たちもおられますが、私はそういう事を好みません。
ですから、「心」や「魂」はあっても、「形」や「行動」には現さない場合があっても良いのではないか・・・というのは、こういう場合の事なのです。
「心」も「魂」も無く、ただ「ふと」思い出しては直ぐに忘れて、「行動」にも現れない・・・というのとは次元が違うのです。
ところで、私は何処の宗教団体にも所属していない自由人ですが、このような内容の話は、本来「宗教的な話」なのでしょうか?
それは、ただ単に「人と人との心の触れ合い」、「魂の触れ合いの話」のような気もするのですが・・・
あなたが私のエッセイを勘違いされたのは、ただ一つの形式にすぎない「お墓参り」という「表面的な言葉」に囚われてしまったからではないでしょうか。
> それに奥様が亡くなった親友にとってどんな存在だったかは、
> 当人同士にしか分からないものがあると思います。
全く、その通りだと思います。
それに女房の親友が亡くなったのは、もう25年以上も前の事ですから、女房自身も細かい事はほとんど忘れている事でもあります。
ですから、あなたのご指摘と全く同じように、
私と女房が毎年2人で仲良くお墓参りをしている心境は、当人同士でなければ分からないものだと思います。
また、女房と親友と私の3人が、どんな心の交流をしているのかも、あなたには分からない筈なのです。
似たような経験のある方のみが理解出来るものだと思います。
しかし、あなたはそれを「分かったつもり」になっているのではないでしょうか?
> なんだか読んでいて、偽善を感じてしまいました。
他人に対して、「この人は、こんな人ではないだろうか?」と心の中で想像する事は自由な事ですから、あなたが私に対して「偽善者」と感じる事は、正直な感想であるならば仕方のない事です。
しかし、「感想」と「事実」とは違う場合が多い、という事は理解して頂きたいと思います。
事実かどうかも分からない「ただの感想」を、言葉に出してしまう時には、相手に対して失礼にならないように、慎重にご配慮願いたいと思います。
私が考えている「亡くなった方に対する供養」というのは・・・
亡くなった方の事を、(生きている方と同じように)愛情を持って、何時までも忘れない事だと考えています。
< 追記 > 2006.10.21
このエッセイの内容には、まだ誤解を生じやすいものがあるかもしれませんので、もう少しだけ付け加えておきます。
女房の親友を仮に「K子さん」としてお話し致します。
私にとっては、K子さんは単に女房の親友というものではないのです。
それを理解して頂だかないと、
「女房の友人の事にまで干渉して、うるさく説教をする亭主」
「女房の行動を常に監視して束縛する亭主」・・・というような印象を与えてしまう事でしょう。
もう一つは、私の女房は亭主の話を素直によく聞く「お人形さん」のような「従順な奥様」という印象を与えたかも知れません。
私は家族の事や自分の苦労話などは、ネットでは書く気がありませんから、これは仕方のない事だと思います。
・
先ず、K子さんについてですが・・・
心を病んでいて、登校拒否や摂食障害を経験している事。
友人や家族にも理解されなくて孤独であった事。
絵が好きで、そちらの方面に進みたいと考えていた事。
これらの状況が私と全く似たような経験をしていたという事です。
また私が自殺を考えたのも小学生の時と高校生の時なのです。
以前のエッセイ、「学校恐怖症とは何でしょう?」にも書きましたが、最近ではごく普通の社会現象となった「不登校」とは違い、昔は全くの孤独でした。
つまり私には、K子さんに対して、同じような経験をした人間でなければ分からない「共感」というものがあるのです。
K子さんが女房に宛てた数通の手紙からは、「助けて欲しい、誰か助けて欲しい」という悲痛な叫び声が聞こえてくるのを感じたのです。
しかし、女房にはこの「共感」というものが無かった訳です。
まあ、子供の頃の事ですから、仕方のない事ではありますが・・・
私は考えました。
何故、同じような経験をしていながら、K子さんは自殺をして、私は生きているのだろうか?
これには色々な事情はあるとは思いますが、その大きな原因の一つとして、私の両親がいわゆる「放任主義」で、私が絵や音楽方面に進む事に対して、全く反対をしなかった事があると思います。
実際に私が救われたのは(つまり現在でも生きているのは)、「音楽」などをやって来れたからなのです。
そこでは当然、共感し合える友人も出来る訳です。
「作曲の喜び」、「創作の喜び」というものは、「孤独にも耐えられる」ものだと思います。
というよりも逆に、創作活動は「孤独な作業」ですから、孤独になれない人には創作活動は無理なのではないかとも思っています。
共同作業で創作をするような場合も多いですが、必ず「孤独の作業」が重要な訳です。
私の知り合いの女性ピアニストが言っていました。
「私にピアノがなかったら死んでいた」・・・と。
これには私も共感出来ました。
音楽というものは、そういうものです。
一般の人たちから見れば、一見楽しく華やかに見える世界かもしれませんが・・・
これは、他の分野の方たちにも、同じような考えの方も多いと思います。
K子さんの場合には、ご親族に優秀な方たちが多かった為に、大学進学などの一般的コースに「過度の期待」をかけられていたそうです。
K子さんも、それに応えようとして頑張っていたようですが、彼女が家族や友人たちに助けられて、もう少しでも長く生き延びてくれたなら・・・
それを思うと、創作の大きな喜びを得られる前に亡くなってしまった彼女の事を、私は常々残念に思っていた訳です。
もし、K子さんが今でも生きていたら、女房と私と3人で楽しい会話が出来たのではないかと、女房とよく話すのです。
・
次に女房の事についてですが・・・
私の女房というのは、普段はほとんど私の言う事を聞いてくれない人なのですが、お墓参りに関して、私の言う事に対して素直に従ったのは、やはり女房の心の中に「親友として、K子さんに対して何もしてあげられなかった」・・・という後悔の念が残っていて、それに目が覚めたからではないかと思います。
女房の話では、「自分も父親の仕事の関係で転校が多く、かなり悩んでいたけれども、友人に恵まれたので不登校にならずにすんだ」・・・という事です。
さて、これで少しは私とK子さんと女房の3人の心の交流が伝わったでしょうか・・・
> 創作活動は「孤独な作業」ですから、
> 孤独になれない人には
> 創作活動は無理なのではないかとも思っています。
これはうんうん、と思いながら読みました。^^
早々のコメントありがとうございます。
実際に作曲をしている方に、そういうコメントを頂けると大変心強いです。
頑張りま~す! ヾ(=^▽^=)ノ
おひさしぶりです。
ネットでの発言は、何かと誤解を受けやすく、難しいですね。
私も今まで、色々な方が誹謗中傷に合い、
耐えられずにお止めになった方が居ます。
とても悲しい事です。
やはり、人格を否定する様な発言は、
他の訪問者の方にも触れる訳ですので、
注意したいものですね。
あと、僕も音楽をやる時、孤独な作業が
多いですが、楽しみながらやっています♪
これが、どういう形になるのか、想像しながらワクワクしつつ作業していると、時間の経つのが早いですね♪
長々とコメント書いてしまいましたが、
今後とも宜しくお願い致します^^
コメントをありがとうございます。
最近では「ブログ炎上」という言葉もあるようで、批判された時の対応も、なかなか難しいようですね。
ニック・ネームやURLなどの無い、無責任な批判などは直ぐに削除したいのですけど・・・
確かに孤独な時間でも、音楽などを夢中でやっている時には、寝食を忘れてしまいます。
こういう時は楽しいですね。
実は私も、いま一番大切にしている人のお宅のお墓参りに行ってきました。
一度連れて行っていただいたのですが今回は内緒でお参りしてきました。
亡くなっているお父様に、彼とご家族の皆さんのことをお願いに…。
何も出来ないからお願い事、自己満足だなって思いますけれど…。
コメントをありがとうございます。
やはり、お墓参りの時には、亡くなられた方と会話をしますよね。
実際に言葉に出してお話しをする人もいます。
数十年も前の事ですけど、私の伯母が食事をする時には、家の仏壇にもお茶やご飯をお供えしていましたが、やはりお祖母さんが生きていた時と同じように、「はい、お茶ですよ」とか話しかけながらやっていたものです。
こういった事を勘違いして、「うそ臭く、演技的で、偽善的」などと言われると、「経験が無い人には分からないだろうな」と思うばかりです。
のーむと申します。
お墓参りの話は、読んでゆく中で引き込まれて最後まで読ませて頂きました。
「あらた」さんの丁寧なお話は、私には大変心に浸み込むものでした。亡くなった奥様の友人を媒介として、これだけの問題が引き出せてくることに大きな関心を抱きました。それとともに、安易な判断では、人の心は理解出来ない事を知り勉強させて頂きました。
これからも、その親友と御夫婦の関係はずっと続いてゆくんだな、と感じます。亡くなった方と、これだけのお付き合いをされている生き方に敬意を表したいとも思います。
かって、私も多くの友人や知人との悲しい別れを経験した思い出があり、時々そうしたお亡くなりになられた人との心の中での遭遇を大切にしております。
私は現在無神論者であり、神仏を信じては居りませんが、かってクリスチャンであった自分と家族を否定する必要も感じません。また、どんな宗教を信奉されていたとしても、それは各個人が判断することであり、他者がどうのこうの干渉することではないことは当然です。
かっては、神仏に手を合わせることをあれほど敬遠した自分ではあっても、現在では、どんな宗派であれその方のことを思って手を合わせ拝むことには何の違和感も持たなくなっております。したがって、あらたさんが毎回、奥様の友人のお墓の前で手を合わされる光景は、きわめて自然なことだと思います。
これからも、あらたさんのページを覗くかもしれませんが、宜しくお願いします。
たまには、私のページも覗いて見てくだされば幸いです。
長いエッセイを読んで頂き、コメントまでありがとうございます。
言葉の真意を理解して頂けたようで嬉しいです。
今そちらのサイトにも伺いましたが、「介護の業界に転進して11年、ケアマネをして5年」・・・との事ですが、大変なお仕事をされていますね。
趣味が音楽とか・・・それに植物がお好きなようですが、ストレス解消に繋がるかもしれませんね。
それに、平和・福祉・スポーツ・競馬・社会・ウェブ・音楽芸術評論・・・など幅広く興味をお持ちのようで驚きました。
では、またお暇な時は遊びに来て下さい。