arata-tokyo-jp's blog(Henry Nagata)

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何故、私がお墓参りをするようになったのか・・・

2006年10月15日 23時40分31秒 | エッセイ
今日は女房と時期外れのお墓参りに行って来ました。
一つは「五反田」にある私の先祖のお墓参りで、もう一つは「等々力」にある女房の親友のお墓参りです。
今年は色々と忙しくて、いつもより大分遅くなってしまいましたが、やっと義務を果たしたようで、気持ちがホッと落ち着きました。

ところで女房の親友と言うのは・・・
小学校の頃から仲の良い女の子だったようですが、この子の家族や親戚には優秀な人たちが多く、彼女にも大学に行く事をかなり勧めて期待していたようです。
しかし、本人は絵が上手な事を他人からも認められていましたから、そちらの方面に進みたいと思っていたようで、その事でかなり苦しんでいたようです。

そういう事情もあってか、彼女は中学生の頃から拒食症になり、水泳の時間などには、気の毒で見ていられないほど身体が痩せ細ってしまったそうです。
また不登校にもなり、残念な事に高校生の時に高いピルから飛び降り、自らの命を絶ってしまいました。



私は結婚後に、彼女が女房に宛てた手紙を全部読んで見た事があります。
その中には、亡くなる直前の手紙もありましたが、その1通だけは筆圧が全く無く弱々しい崩れた文字になっていました。
普段は女の子らしい綺麗な文字を書く子なのですが・・・

その最後の手紙の内容というのは、「高校に進学してから友人がいないので、友人を紹介して欲しい」・・・というようなものでした。
どの手紙を読んでも、親友である女房に寂しさを切々と訴えているのが私にもよく伝わってきて、可哀想になってきました。

ところが驚いた事に、私の女房には彼女の苦しみがほとんど伝わらなかったようなのです。
手紙の文字が明らかに弱々しく崩れている事にも今まで気が付かず、彼女のお通夜にも行かなかったそうで、他の友人から「冷たいのね」と言われた事があったと話していました。
私の女房は彼女の事を「親友」と呼んではいましたが、親友らしい事を何一つしてあげられなかったのです。

私も小学校と高校の時には登校拒否を経験していますし、画家を夢見ていましたから、「自分と似ている」と感じ、他人事とは思えませんでした。
それで毎年、彼女のお墓参りを女房と2人で行くようになったのです。
どちらかというと、初めの内は私が女房を引っ張って連れて行くという感じでした。
というのも・・・



女房と2人で、初めて彼女のお墓参りをした時の事なのですが・・・
女房の様子を見ていましたら、非常に「形式的」で、
先ずお墓に水を撒き、お花を添えて、お線香を焚いて、手を合わせて、それで直ぐに帰ろうとしたのです。

それがあまりにもあっけなかったので、、私は女房に聞いてみました。
「いつもそんな風にお墓参りをしていたの?」
「彼女と会話をしたの?」
女房はただ単に形式的に手を合わせていただけで、亡くなった彼女との会話などは全く考えていなかったようです。
無心になって手を合わせるものと考えていたのかも知れませんが・・・

私は言いました。
「今でも彼女の事を親友と呼んでおきながら、彼女の悩みを聞いてあげる事もなく、親友らしい事を何一つしてあげられなかったのだから、その事を謝りなさい」
「その為にお墓参りに来たのではないか!」
女房は「初めてお墓参りの意味が分かった」と言って納得しました。

私はお墓の前で手を合わせながら、亡くなった彼女には次のような話をしているのです。
「こんにちは。また来ましたよ」
「女房が親友である貴女の悩みを理解してあげられなくてごめんなさい」
「女房もその内に、それを実感で分かる時が必ず来ます」
「それまで待っていて下さい」
「女房は自分の事で精一杯の人なのです」
「悪い人ではないのですが、、他人の気持ちを考える余裕のない人なのです」
「女房を恨まないで下さいね」
「貴女の事は一生忘れませんからね」

それから1本だけ煙草を吸いながら、数分の間「無言の会話」を楽しむのです。
生きている友人に会いに来たのと同じように・・・
私は毎年こんな風にしているのですが、今回は女房と2人で「般若心経」を読んでから帰りました。



さて次に、私の先祖のお墓参りの事ですが・・・
私の実家にも女房の実家にも「信心深い人」は全くいなくて、自発的にお墓参りをする人などは1人もいません。
多少信心深いのは母親くらいのものですが、今では足が悪くてお墓参りも出来なくなりました。
私は男ばかりの3人兄弟の末っ子ですし、家族皆がお墓参りをしないという環境に育ちましたから、結婚をするまでは自発的にお寺に行く事は全くありませんでした。

つまり自分の先祖のお墓参りに行くより先に、女房の親友のお墓参りに行っていたという訳です。
ある時、その不自然さに気が付いて、数年前から同じ日に2つのお寺を廻るようになったという訳です。

何故私が自発的にお墓参りをするようになったのか、というもう1つの理由は・・・
私と女房は「何かに守られている」という事を実感で感じるようになってきたからです。
私たちが苦しみのどん底に陥った時に、全く不思議な事に予想外の「助け舟」が入るのです。
そういう事が何度もあって、いつも不思議に感じているのです。
つまり「感謝の気持ち」からなのです。

しかし、私たちを守ってくれているのが「ご先祖の霊」なのか、「神」なのか「仏」なのか、「守護霊」なのか「宇宙の神秘」なのかは全く分かりません。
とにかく「守られている事」が実感で感じられるのです。

<追記>

今回のエッセイには誤解を生じやすい部分があったらしく、私に対して「偽善者」扱いするようなコメントが入りました。
これに対しての私のコメントを修正して追加分を入れ、エッセイとしてUPしましたので、お時間のある方は是非お読み下さい。

★ 「偽善者カキコ」にお答え致します ★


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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
墓参り (sorou)
2006-10-16 11:48:18
静かに読みました。

悦後のご老公 84歳
返信する
ご老公・・・ (arata-tokyo-jp)
2006-10-16 20:27:12
SOROUさん、はじめまして、こんばんは。

コメントをありがとうございます。

84歳のご老公・・・ですか?

人生の大先輩ですね。

今後ともよろしくお願い致します。
返信する
墓参 (dumbo)
2006-10-17 09:51:16
私も感謝の念からいきます。先日も夫の母方のお墓に行ってお祈りしていたら、「次から次へといろんなことが起こるわぃ、これじゃ忙しくて昼寝も出来んよ、ハァッ、ハァッ、ハァッ!」と空耳が聞こえてきました。(笑)
返信する
感想 (疑問。。。)
2006-10-17 10:17:55
気分を害されるかもしれませんが、親友だからと言って、お墓参りに行き、亡くなった方とコミュニケーションをとることだけが、彼女の供養になるとは思えません。

奥様のお墓参りが形式的だったと書いてありましたが、「墓参り」だからと亡くなった方に問いかけるのは、かえってうそ臭く、演技的で形式的に感じてしまいます。

人それぞれ、心の中になくなった方の思い出があって、時に自分の心の中で問いかけたり思ったりすることがあると思います。

人それぞれの供養の仕方があっていいんではないでしょうか?それは宗教的な観念の違いにもつながってくると思います。

それに奥様が亡くなった親友にとってどんな存在だったかは、当人同士にしか分からないものがあると思います。

なんだか読んでいて、偽善を感じてしまいました。
返信する
ダンボさんへ (arata-tokyo-jp)
2006-10-17 12:50:40
ダンボさん、こんにちは。

いつもコメントをありがとうございます。

ダンボさんのお墓参りも、旧友に会うように楽しい会話が始まってしまうようですね。
返信する
ブログ・エッセイ (astuloso)
2006-10-18 17:14:36
ブログは日記ということで、日記を書こうと思うのですが、結局他人に読まれることを前提になっちゃいますよね。

エッセイもそうなのかもしれませんが、他の方の批評が目的でないなら、好きに書いちゃっていいかと・・w(^^;) エヘッ

単純ですみませぬ・・・☆

arata-tokyo-jpさんのままで、いいとおもいますw
返信する
私らしく・・・ (arata-tokyo-jp)
2006-10-18 17:30:57
astuloso さん、こんにちは。

コメントをありがとうございます。

私は悪意の無い批判やアドバイスでしたら、「耳の痛い話」でも、人の話は聞こうと思っています。

ちょっとコメントが短くて意味不明の所もありますが、今まで通り、このまま「私らしくやっていれば良い」・・・という事ですかね。
返信する
疑問さんへ・・・お答え致します (arata-tokyo-jp)
2006-10-18 18:47:01
疑問さん、はじめまして、こんにちは。

コメントをありがとうございます。

本来私のブログには、私のエッセイに「共感」をした方がコメントをくれるものと考えていますが、あなたのご批判は悪質なものではないと判断し、削除せずに丁寧にお答えしたいと思います。

悪質なものでない限り、ご批判に対しては気分を害する事はありませんから、全くご心配いりません。



> 気分を害されるかもしれませんが、親友だからと言って、お墓参りに行き、

> 亡くなった方とコミュニケーションをとることだけが、彼女の供養になるとは思えません。



そのご指摘は当然の事と思います。

お墓参りに関しては、日本の風習(一つの形式)にすぎません。

ですから今回は、世間の常識から見て「時期はずれ」であってもお墓参りに行ったのです。

形式には囚われないという意味です。



> 奥様のお墓参りが形式的だったと書いてありましたが、

> 「墓参り」だからと亡くなった方に問いかけるのは、

> かえってうそ臭く、演技的で形式的に感じてしまいます。



私のお墓参りの仕方は、「幼なじみ」やいつも会えない「友人」に会えた時の楽しみを味わうような雰囲気なのです。

あなたが100%勘違いをされて、私のこのような態度を「うそ臭く演技的で形式的」と感じるという事は、もしかすると、あなたは相当お若い方ではないかとお察し致します。

10代~20代半ばの方で、ただ一つの価値観や宗教団体に熱中している方か、又はその逆で「宗教嫌い」、「形式嫌い」の方のような気が致します。

もし間違っていたらごめんなさい。



私のエッセイでは、「常識論」や「正論」や「理想論」などを書く気は全くありません。

ほとんど「経験談」に近いものです。

「こんな経験をしました」、「こんな事を感じました」といったようなものです。

ですから経験の無い方には、年齢に関係なく理解出来ないものなのです。

特にお若い方には理解出来ない話が多いと思います。



> 人それぞれ、心の中になくなった方の思い出があって、

> 時に自分の心の中で問いかけたり思ったりすることがあると思います。

> 人それぞれの供養の仕方があっていいんではないでしょうか?

> それは宗教的な観念の違いにもつながってくると思います。



あなたのお考えの根本に間違いがあるとは思いません。

私の母親は80歳を過ぎて足を悪くしていますから、電車を乗り継いでお寺に行く事は厳しいですから、実家にある小さな仏壇で手を合わせています。

仏壇にお線香をたいて手を合わせるのも、一つの形式ですが、本来は何の形式もいらないのではないかと感じる事もあります。



「形式」というものは、自分の「心」や「魂」を、自分なりに「表現」したものにすぎません。

どのような表現も自由なものだと思います。

どのような宗教観を持っていても差し支えないと思います。

しかし、表面的な「形式」だけで、肝心の「心」や「魂」が入らなければ、その形式は「中身の無い形式」となり、その時に偽善や醜い世界が現れてくるのです。



また、「心」や「魂」があるのであれば、それは何らかの「形」や「行動」として現れてくるものだと思います。

言葉ばかりで「行動に表さない人間」を、私は信用していません。



私が何処にいる時でも、「ふと」思い出したように「手を合わせる」ような事があるのも、「感謝の気持ち」から自然にそうなるのであって、日常的な事なのです。

演技や形式や偽善などという事とは、全く「次元」の異なる話なのです。

ただし、他人の見ている前では手を合わせるような事はありません。

その時は、心の中で手を合わせています。

「心」や「魂」はあっても、「形」や「行動」には現さない場合もある・・・というのは、こういう場合の事なのです。



ところで、私は何処の宗教団体にも所属していない自由人ですが、このような内容の話は、本来「宗教的な話」なのでしょうか?

それは、ただ単に「人と人とのお付合いの話」のような気もするのですが・・・

あなたが私のエッセイを勘違いされたのは、ただ一つの形式にすぎない「お墓参り」という「表面的な言葉」に囚われてしまったからではないでしょうか。



> それに奥様が亡くなった親友にとってどんな存在だったかは、

> 当人同士にしか分からないものがあると思います。



全く、その通りだと思います。

それに女房の親友が亡くなったのは、もう25年以上も前の事ですから、女房自身も細かい事はほとんど忘れている事でもあります。

ですから、あなたのご指摘と全く同じように、

私と女房が毎年2人で仲良くお墓参りをしている心境は、当人同士でなければ分からないものだと思います。



また、女房と親友と私の3人が、どんな心の交流をしているのかも、あなたには分からない筈なのです。

似たような経験のある方のみが理解出来るものだと思います。

しかし、あなたはそれを「分かったつもり」になっているのではないでしょうか?



> なんだか読んでいて、偽善を感じてしまいました。



他人に対して、「この人は、こんな人ではないだろうか?」と心の中で想像する事は自由な事ですから、あなたが私に対して「偽善者」と感じる事は、正直な感想であれば仕方のない事です。

しかし、「感想」と「事実」とは違う場合が多い、という事は理解して頂きたいと思います。

事実かどうかも分からない「ただの感想」を、言葉に出してしまう時には、相手に対して失礼にならないように、慎重にご配慮願いたいと思います。



私が考えている「亡くなった方に対する供養」というのは・・・

亡くなった方の事を、(生きている方と同じように)愛情を持って、何時までも忘れない事だと考えています。
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