今日は私の神秘的な体験談をお話し致しましょう。
とは言っても、オカルト的なお話ではありません。
これは7年ほど前に、私がある手術で入院していた時の事です。
この時、手術後の麻酔が切れた時には、痛みが出る事が予想されていました。
それで軽い痛みの時には漢方薬その他の飲み薬、激しい痛みの時には注射、痛みで眠れない時には睡眠薬・・・という風に、どんな痛みがあっても大丈夫なように万全の体制を取っていたのです。
ところが、手術後10日ほど経った時に、予想外の激しい痛みが襲って来たのです。
(初めの予定ではこの日に退院する筈だったのですが)
それも、よりによってトイレの中でなのです。
人を呼ぶ事が出来ません。
何故なら、用を足している最中だからです。
薬も注射もダメです、激しい痛みを止める事が全く出来ないのです。
その時の痛みは、直ぐに収まるようなものではなく、逆にどんどん痛みが増して行くような状態でした。
この時には大げさではなく、本当に「絶体絶命」という気持ちになったものです。
この時です、不思議な体験をしたのは・・・
私はふと「何故、自分だけがこんなに苦しまなければならないのだろう?」と疑問に思ったのです。
そうしたら、次の瞬間に・・・閃きが来たのです。
その時の閃きは、正に「天の声」でした。
その閃きとは・・・
「この痛みは自分だけのものではない、、今この瞬間に世界中で同じような手術をした人は、同じような痛みを味わっているのだ」
また「過去に同じような手術をした人も、同じような痛みを味わっているのだ」
そして「現在は元気な人であっても、将来同じような手術で同じような痛みを感じる人もいるのだ」
つまり世界中という「空間的」なつながりと、過去から現在、未来の「時間的」なつながりで、同じ痛みを味わっている人たちと「心がひとつ」になってしまったのです。
全く見もしない人たちと「心の一体感」が生じてしまったのです。
別の言葉で言いますと、「自分は孤独ではない」という感覚です。
この閃きは、ただの閃きではありませんでした。
それだけでは終わりませんでした。
不思議な事に、身体には激しい痛みがあるにもかからわず、心に安らぎがやって来たのです。
何故か、心が「幸福感」に満たされてしまったのです。
これは「神秘体験」と言うしかありません。
後になって、「これはベータ・エンドルフィンによる脳内麻薬の働きではないか」、とも考えてみたのですが、これとは全く違いました。
脳内麻薬の場合には、死ぬほどの激しい痛みが起きた場合に、ベータ・エンドルフィンが一瞬の内に身体中を巡り身体の痛みは消えてしまうのです。
私の体験の場合はそれとは違い、
「身体には激しい痛みがあるままで、精神が幸福感に満たされた」のです。
痛みと同時に幸福感があるからと言って、私がマゾヒストという訳ではありません。
私はこの経験から、宗教家たちが何故自ら進んで「難行苦行」をするのかを理解する事が出来ました。
宗教家の人たちは、人々を救う為に早く悟らなければならない訳ですが、太古の昔から経験的に「苦しみの中で悟りやすい」という事を知っているからではないかと思いました。
ある医者が著した本の中に書かれていた事ですが・・・
戦争中に、負傷した兵士たちを診た医者が、不思議に思った事があったそうです。
それは、それほど大した怪我ではない患者が「痛い、痛い」と大騒ぎをするのに対して、かなり重症の患者の方は、逆に物静かで回りの人に対しても気配りをしていたというのです。
私は自分の経験から、それを理解出来るようになりました。
私も手術直後の個室に入っていた時には、看護婦さんに「痛い、痛い」と訴えていたのです。
何故かと言いますと、「痛い」と言わなければ痛み止めの薬をくれないからです。
痛み止めの注射などは、やり過ぎると良くない訳です。
私の場合も注射のせいで、気分が悪くなって吐いてしまった事があります。
麻酔なども多く使った為だと思いますが、麻酔が切れたた後でも中々尿やガスや便が出なくて大変な思いをしたものです。
しかし、少し経ってベッド6つの大部屋に移り、先ほどの経験をした後では、さすがに「痛い、痛い」とは騒がなくなりました。
ではどのように表現するようになったのかと言いますと、
看護婦さんが様子を診に来た時には、
「昨日より良くなりました」と言うようになったのです。
次の日も、次の日も「昨日より楽になりました」と言う訳です。
本当は痛いのですが、「痛い」という言葉を全く使わなくなりました。
こういう経験をしますと、人生観まで変わって来るものです。
「幸福とは、苦しみの後にやって来るものだ」・・・などと考えるようになりました。
それまでは「幸福とは、嬉しい事や楽しい事があった時に感じるものだ」と思い込んでいたのです。
宗教の本などに書いてある「感謝の気持ち」というものも、「嬉しい事や楽しい事があったから感謝します」と言うのでは可笑しいな、と思うようになったのです。
本当に・・・苦しい時に、感謝の心が生じて来るのです。
もっと正確に言いますと、「苦しみの直ぐ後に・・・」という事です。
もう一つ感じました事は、世の中には色々な宗教団体がありますけれども、なにも宗教団体などに入らなくても、また特定の宗教を信じていなくても、このような宗教的な神秘体験は起こりうる、という事です。
また、いくら沢山の宗教書を読んで、「感謝の気持ち」を起こそうと思ったところで、それは無理な話なのです。
「良い事があったから、感謝しなさい」とか「もっと世の中には苦しんでいる人たちがいるのだから、感謝しなさい」とか説教をされてみても、それは「理屈」でしか理解出来ないのです。
実感がないのです。
つまり、本当には理解出来ないのです。
ですから、インターネットで評判になっている「世界が100人の村だったら」という本にしても同じ事なのです。
一言で言えば、「世界には苦しんでいる人たちが沢山いるのだ、だからそれを思って感謝の気持ちを持ちなさい」という説教になってしまっています。
これは、元々は宗教的な意味で書かれたものではなかったそうなのです。
チェーン・メールのようにインターネットで広まるにつれて、徐々に宗教的なニュアンスの説教じみた内容に変化してしまったのだそうです。
また、この本を読んで理解出来る人がいたとすれば、それは読む以前から理解している人なのです。
「知っている人には、話す必要はない」
「知らない人には、話しても分からない」
「だから、誰にも話さない」
という言葉があるようですが、これも極端な言い方ではありますけれども、一面の真理を含んでいるように思います。
また、一般的な考え方として、「心身一体」などと言って、
「身体が苦しければ、当然・・・心も苦しい」と思い込んでいますけれども、これは違うのです。
「身体が苦しくとも、心が安らいでいる」という事がありえるのです。
さて、この神秘体験は、私の人生観が変わってしまうきっかけとなった、非常に貴重な経験です。
もし現在、色々な事情で苦しんでおられる方がいましたら、是非参考にして頂きたいと思います。
とは言っても、オカルト的なお話ではありません。
これは7年ほど前に、私がある手術で入院していた時の事です。
この時、手術後の麻酔が切れた時には、痛みが出る事が予想されていました。
それで軽い痛みの時には漢方薬その他の飲み薬、激しい痛みの時には注射、痛みで眠れない時には睡眠薬・・・という風に、どんな痛みがあっても大丈夫なように万全の体制を取っていたのです。
ところが、手術後10日ほど経った時に、予想外の激しい痛みが襲って来たのです。
(初めの予定ではこの日に退院する筈だったのですが)
それも、よりによってトイレの中でなのです。
人を呼ぶ事が出来ません。
何故なら、用を足している最中だからです。
薬も注射もダメです、激しい痛みを止める事が全く出来ないのです。
その時の痛みは、直ぐに収まるようなものではなく、逆にどんどん痛みが増して行くような状態でした。
この時には大げさではなく、本当に「絶体絶命」という気持ちになったものです。
この時です、不思議な体験をしたのは・・・
私はふと「何故、自分だけがこんなに苦しまなければならないのだろう?」と疑問に思ったのです。
そうしたら、次の瞬間に・・・閃きが来たのです。
その時の閃きは、正に「天の声」でした。
その閃きとは・・・
「この痛みは自分だけのものではない、、今この瞬間に世界中で同じような手術をした人は、同じような痛みを味わっているのだ」
また「過去に同じような手術をした人も、同じような痛みを味わっているのだ」
そして「現在は元気な人であっても、将来同じような手術で同じような痛みを感じる人もいるのだ」
つまり世界中という「空間的」なつながりと、過去から現在、未来の「時間的」なつながりで、同じ痛みを味わっている人たちと「心がひとつ」になってしまったのです。
全く見もしない人たちと「心の一体感」が生じてしまったのです。
別の言葉で言いますと、「自分は孤独ではない」という感覚です。
この閃きは、ただの閃きではありませんでした。
それだけでは終わりませんでした。
不思議な事に、身体には激しい痛みがあるにもかからわず、心に安らぎがやって来たのです。
何故か、心が「幸福感」に満たされてしまったのです。
これは「神秘体験」と言うしかありません。
後になって、「これはベータ・エンドルフィンによる脳内麻薬の働きではないか」、とも考えてみたのですが、これとは全く違いました。
脳内麻薬の場合には、死ぬほどの激しい痛みが起きた場合に、ベータ・エンドルフィンが一瞬の内に身体中を巡り身体の痛みは消えてしまうのです。
私の体験の場合はそれとは違い、
「身体には激しい痛みがあるままで、精神が幸福感に満たされた」のです。
痛みと同時に幸福感があるからと言って、私がマゾヒストという訳ではありません。
私はこの経験から、宗教家たちが何故自ら進んで「難行苦行」をするのかを理解する事が出来ました。
宗教家の人たちは、人々を救う為に早く悟らなければならない訳ですが、太古の昔から経験的に「苦しみの中で悟りやすい」という事を知っているからではないかと思いました。
ある医者が著した本の中に書かれていた事ですが・・・
戦争中に、負傷した兵士たちを診た医者が、不思議に思った事があったそうです。
それは、それほど大した怪我ではない患者が「痛い、痛い」と大騒ぎをするのに対して、かなり重症の患者の方は、逆に物静かで回りの人に対しても気配りをしていたというのです。
私は自分の経験から、それを理解出来るようになりました。
私も手術直後の個室に入っていた時には、看護婦さんに「痛い、痛い」と訴えていたのです。
何故かと言いますと、「痛い」と言わなければ痛み止めの薬をくれないからです。
痛み止めの注射などは、やり過ぎると良くない訳です。
私の場合も注射のせいで、気分が悪くなって吐いてしまった事があります。
麻酔なども多く使った為だと思いますが、麻酔が切れたた後でも中々尿やガスや便が出なくて大変な思いをしたものです。
しかし、少し経ってベッド6つの大部屋に移り、先ほどの経験をした後では、さすがに「痛い、痛い」とは騒がなくなりました。
ではどのように表現するようになったのかと言いますと、
看護婦さんが様子を診に来た時には、
「昨日より良くなりました」と言うようになったのです。
次の日も、次の日も「昨日より楽になりました」と言う訳です。
本当は痛いのですが、「痛い」という言葉を全く使わなくなりました。
こういう経験をしますと、人生観まで変わって来るものです。
「幸福とは、苦しみの後にやって来るものだ」・・・などと考えるようになりました。
それまでは「幸福とは、嬉しい事や楽しい事があった時に感じるものだ」と思い込んでいたのです。
宗教の本などに書いてある「感謝の気持ち」というものも、「嬉しい事や楽しい事があったから感謝します」と言うのでは可笑しいな、と思うようになったのです。
本当に・・・苦しい時に、感謝の心が生じて来るのです。
もっと正確に言いますと、「苦しみの直ぐ後に・・・」という事です。
もう一つ感じました事は、世の中には色々な宗教団体がありますけれども、なにも宗教団体などに入らなくても、また特定の宗教を信じていなくても、このような宗教的な神秘体験は起こりうる、という事です。
また、いくら沢山の宗教書を読んで、「感謝の気持ち」を起こそうと思ったところで、それは無理な話なのです。
「良い事があったから、感謝しなさい」とか「もっと世の中には苦しんでいる人たちがいるのだから、感謝しなさい」とか説教をされてみても、それは「理屈」でしか理解出来ないのです。
実感がないのです。
つまり、本当には理解出来ないのです。
ですから、インターネットで評判になっている「世界が100人の村だったら」という本にしても同じ事なのです。
一言で言えば、「世界には苦しんでいる人たちが沢山いるのだ、だからそれを思って感謝の気持ちを持ちなさい」という説教になってしまっています。
これは、元々は宗教的な意味で書かれたものではなかったそうなのです。
チェーン・メールのようにインターネットで広まるにつれて、徐々に宗教的なニュアンスの説教じみた内容に変化してしまったのだそうです。
また、この本を読んで理解出来る人がいたとすれば、それは読む以前から理解している人なのです。
「知っている人には、話す必要はない」
「知らない人には、話しても分からない」
「だから、誰にも話さない」
という言葉があるようですが、これも極端な言い方ではありますけれども、一面の真理を含んでいるように思います。
また、一般的な考え方として、「心身一体」などと言って、
「身体が苦しければ、当然・・・心も苦しい」と思い込んでいますけれども、これは違うのです。
「身体が苦しくとも、心が安らいでいる」という事がありえるのです。
さて、この神秘体験は、私の人生観が変わってしまうきっかけとなった、非常に貴重な経験です。
もし現在、色々な事情で苦しんでおられる方がいましたら、是非参考にして頂きたいと思います。
そう、その通り。
「身体が苦しくとも、心が安らいでいる」
↑の事って、今の私なんです_(^^;)ゞ
あらたん、<(_ _*)> アリガトォ
私の気持ち、伝わりましたか。
良かった!
この話は、経験がない人には分からない内容なのですよ。
dumboさんのサイトから飛んで来た ゆうと申します。
痛みを通してあの一体感を体験されたのですね。
そんな風に作られている人間の体って、
本当に素晴らしいと思います。
そんな感動で いつも人生の節目を彩ることが出来たら、
どんなに素敵でしょうか。
ゆう☆
初めてのコメントですね。ありがとうございます。
ダンボさんのお知り合いでしたか。
やはり同じような痛みを体験されたのですね。
先ほど、ゆうさんの楽天のHPにも覗いました。
ダンボさんの作品に対する「ある情景」は、全く先入観がない状態で心に浮かんで来たものなのですよ。
何故か日本的な感じがしたのです。
日記を拝見しました。幽玄な世界、素敵ですね!!
私もまず、いつか見た「ラスト・サムライ」の
オープニングを思い出しました^-^
海外で生活されているdumboさんだからこそ
逆にあれほど凛とした和のイメージを
紡ぎ出せるのかしら・・・なんて事を考えてました。
私も、あらたさんのように
見えた映像を描写してみようかな・・・♪
楽しみになってきました。
「ラスト・サムライ」でしたか。
あの音楽は何故か日本の時代劇を連想してしまいますね。
あれは現代の戦争の、ある兵士の事を題材にした音楽だったようですね。
アメリカに住んでいると、日本人であるという事を意識する事が多いのかも知れませんね。
今回のように、音楽から映像がかなりはっきりと見えて来るという事は、私にとっても珍しい事だったのですよ。
ゆうさんも是非やってみて下さい。
楽しみにしています。
そういえば「ラスト・サムライ」、見たかったのですけど、まだ見ていないのですよ。
その内にテレビで放送するかな?
ではでは・・・