読書というのは面白いものです。
通常ですと「良い話だ」とか「面白い話だ」とか、「勉強になった」とかいうだけで終わってしまう事が多いのですが、ある場合には、ほんの数行読んだだけで、自分の深層心理を発見してしまい、今までの自分自身の考え方が、一変してしまうような事もあります。
例えばこんな事がありました・・・。
私は若い頃に、何となく考えていた事があったのですが、それというのは・・・。
もし私の家族の中の誰かが、犯罪を犯した場合には、当然の事ながら、自首する事を勧めるか、もしくは警察に連絡をするだろう、という事です。
私の父親が皇宮警察官という事もあり、私にも多少の正義感がありましたから、この考え方に対して、疑いを持つという事は全くありませんでした。
例え家族の事ではあっても、こういう時には、「理性的」に「正義感」で判断すべきであって、これに間違いはないと思っていたのです。
そんな時です・・・。
何となく「論語」を読んでいる時に、次のような話が出て来たのです。
・
・
ある人物が、その領地を訪れた孔子に向かって自慢げに言いました。
「私達の村には非常に正直者の息子がいまして、父親が他人の羊をごまかしたのを、その息子が証人に立って、実の父親を有罪に致しました・・・」
これを聞いた孔子が言いました。
「私の村の正直者というのは、それとは違います」
「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」
「父親は子供をかばい、子供は父親をかばいます。そして正義は、おのずから、その中に存在します」
・
・
もう数十年も前に読んだ話ですので、正確さには欠けると思いますが、私はこの話を読んだ時に、私の心臓に、飛んで来た矢がグサッと深く突き刺さったような衝撃を受けました。
私はこの時に、はっきりと目覚めました。
私が考えていた「理性」と「正義感」というものは、「愛情」という一番大切なものを全く欠いている考え方なのだと・・・。
孔子の言葉が、正しい考え方なのかどうかは、それぞれに意見があると思いますし、私にもどちらが正しい事なのかは、未だに良くは分かりません。
決して、孔子の言葉が「正しい」と思って、目が覚めた訳ではありません。
ただはっきりと分かった事は、「理性的」だとばかり思い込んでいた自分の考え方には、親に対する「深い愛情」が全く欠けていた、という事実です。
この時の発見は非常に大きなもので、これ以来私は「愛情」が伴わない時の「理性」や「正義」というものには、深い疑いを持つようになりました。
また読書についても、「正しいお話」や「良いお話」を読むのではなく、自分自身を「目覚めさせてくれるような話」を読みたいものだ、と考えるようになりました。
極端な事を言えば、「間違った話」でも「非常識な話」でも、自分を目覚めさせてくれれば良い訳ですから、この世の中に「悪書」という言葉も、なくなってしまうかも知れません。
本というのは不思議なものです。
ただ単に「物質」として見れば、紙の束にインクの文字が並んでいるというだけの物に過ぎません。
ところが、そこに偉大な人物の思想が加わると、二千年以上も前の「精神エネルギー」がその物質を伝わって、現代の私達の心と共鳴し、衝撃を与えるのです。
そしてそれをまた、後世の人達に伝えようという気持も生じます。
孔子の肉体は滅んでも、孔子の精神は生き続けている事が良く分かります。
そしてそれを伝えるのが、紙の束とインクの文字なのです。
通常ですと「良い話だ」とか「面白い話だ」とか、「勉強になった」とかいうだけで終わってしまう事が多いのですが、ある場合には、ほんの数行読んだだけで、自分の深層心理を発見してしまい、今までの自分自身の考え方が、一変してしまうような事もあります。
例えばこんな事がありました・・・。
私は若い頃に、何となく考えていた事があったのですが、それというのは・・・。
もし私の家族の中の誰かが、犯罪を犯した場合には、当然の事ながら、自首する事を勧めるか、もしくは警察に連絡をするだろう、という事です。
私の父親が皇宮警察官という事もあり、私にも多少の正義感がありましたから、この考え方に対して、疑いを持つという事は全くありませんでした。
例え家族の事ではあっても、こういう時には、「理性的」に「正義感」で判断すべきであって、これに間違いはないと思っていたのです。
そんな時です・・・。
何となく「論語」を読んでいる時に、次のような話が出て来たのです。
・
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ある人物が、その領地を訪れた孔子に向かって自慢げに言いました。
「私達の村には非常に正直者の息子がいまして、父親が他人の羊をごまかしたのを、その息子が証人に立って、実の父親を有罪に致しました・・・」
これを聞いた孔子が言いました。
「私の村の正直者というのは、それとは違います」
「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」
「父親は子供をかばい、子供は父親をかばいます。そして正義は、おのずから、その中に存在します」
・
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もう数十年も前に読んだ話ですので、正確さには欠けると思いますが、私はこの話を読んだ時に、私の心臓に、飛んで来た矢がグサッと深く突き刺さったような衝撃を受けました。
私はこの時に、はっきりと目覚めました。
私が考えていた「理性」と「正義感」というものは、「愛情」という一番大切なものを全く欠いている考え方なのだと・・・。
孔子の言葉が、正しい考え方なのかどうかは、それぞれに意見があると思いますし、私にもどちらが正しい事なのかは、未だに良くは分かりません。
決して、孔子の言葉が「正しい」と思って、目が覚めた訳ではありません。
ただはっきりと分かった事は、「理性的」だとばかり思い込んでいた自分の考え方には、親に対する「深い愛情」が全く欠けていた、という事実です。
この時の発見は非常に大きなもので、これ以来私は「愛情」が伴わない時の「理性」や「正義」というものには、深い疑いを持つようになりました。
また読書についても、「正しいお話」や「良いお話」を読むのではなく、自分自身を「目覚めさせてくれるような話」を読みたいものだ、と考えるようになりました。
極端な事を言えば、「間違った話」でも「非常識な話」でも、自分を目覚めさせてくれれば良い訳ですから、この世の中に「悪書」という言葉も、なくなってしまうかも知れません。
本というのは不思議なものです。
ただ単に「物質」として見れば、紙の束にインクの文字が並んでいるというだけの物に過ぎません。
ところが、そこに偉大な人物の思想が加わると、二千年以上も前の「精神エネルギー」がその物質を伝わって、現代の私達の心と共鳴し、衝撃を与えるのです。
そしてそれをまた、後世の人達に伝えようという気持も生じます。
孔子の肉体は滅んでも、孔子の精神は生き続けている事が良く分かります。
そしてそれを伝えるのが、紙の束とインクの文字なのです。
これを見つけてびっくり!
実はあらたさんがどこの誰かも全然知らない時に
このブログを読んでとても共感したからです。
私の場合、本を数行読んで深層心理を発見した
訳ではなく、痛い経験からでしたが、
当時のことは忘れていました。
だからこのブログを読んでハッとしたというか、
深いところから伝わって来ました。
当時はネットサーフィンしていたので、
誰のサイトだったか気にすることもなく
わからないままでした。
あらたさんだったんですね。
お ど ろ い た!
嬉しいです。
最近あまりエッセイをUPしていないせいか、コメントが全然入らなくて・・・(;^_^A
共感するって不思議ですよね。
やっぱり、不思議な縁を感じますね。
先日はアメリカにいる私の友人を検索で見つけて頂きありがとうございました。
20年も会っていない友人が、フロリダのパームビーチのホテルでラウンジ・ピアニストとして働いているなんて・・・
インターネットって本当にすごいですね。