最近の電車には「優先席」というものが設けられていますが、数十年前にはあの場所は、老人の為の「シルバー・シート」というものでした。
お若い方はご存知ないかもしれませんが。
今日はこのシルバー・シートのお話から始めてみようと思います。
・
私は生まれてからずっと東京に住んでいますが、電車に乗っている時に、シルバー・シートというものに老人が並んで座っている姿を、ほとんど見た事がありませんでした。
印象としてですが・・・
若い頃、私は電車の中で座って本を読む事がありましたが、その時に目の前にお婆さんがつり革につかまって立つ事があり、仕方なく席を譲るという事がよくありました。
初めは何故か分かりませんでしたが、しばらく経ってその理由が分かりました。
私は電車に乗る時には、混んでいてもすぐに外に出られるようにと、ドアのすぐ横に座るクセがあったのです。
この事に気が付いてからは、電車に乗った時に試しに座席の中央、つまりドアから離れた所に座るようにしてみました。
そうしたら案の定、その後はお婆さんが私の目の前に立つような事はほとんどありませんでした。
つまりお婆さんは、「ドアのすぐ横の席に座りたがっているのだな」と感じました。
鉄道会社としては、老人の為を思ってシルバー・シートを設置したのだと思います。
これは善意です。
例え「会社のイメージ・アップ」という狙いがあったとしても・・・。
しかし老人の為を思うのなら、最初の段階で十分な「会話」が必要だったのではないでしょうか。
また設置後もアンケートを取るなどして、本当に喜んでもらえているのかを「再調査」すべきではないでしょうか。
私はこの事から、シルバー・シートなどは取り外して、各ドアの直ぐ両側をシルバー・シートにすれば良いと考えていたものです。
これならば混雑している時にも、比較的楽にドアの外に出られますから、老人が安心して座っていられると思うのです。
もちろんこれにも「会話」が必要ですが・・・。
・
最近になって思いついた事ですが、
シルバーシートなんていらなくて、ただ車内放送で
「ドアのすぐ両脇の席は、お身体の不自由な方やお年寄りの方たちにお譲り下さい」などと乗客に伝えれば良いのではないかと思うようになりました。
これならば無駄な費用もかかりません。
つまり一般の乗客の意識を変える事が大切で、これには費用はかからない訳です。
多くの費用をかけても役に立たない事が多いですから。
・
また最近では、駅のトイレに大きなスペースをとって、障害者と一般の人たちが使える個室を設置しているのを見かけるようになりましたが、これも可笑しいのです。
小さな文字の説明文を読んでみましたら、「30分で自動的にドアが開いてしまう」と書いてあるのです。
トイレを故意に壊す人間もいるそうですから、セキュリティなどの為でしょうが・・・
これは障害者の方は、「30分以内にトイレから出られる」と決めてかかっている訳です。
私は以前、痔の手術をした事があるのですが、手術前の十数年間というものは、トイレに30分以上入っているという事はザラにあるのです。
長い時には1時間も入っていた事もありますから、30分で出られる事などほとんどなかったのです。
ですから想像するに、当然障害者の方にしても30分以上入っている人もいると思うのですが、用を足している最中に急にドアが開いてしまったら・・・?
まあ、世の中にはこういう事が実に多い訳です。
・
話は変わりますが・・・。
人から聞いた話ですので詳しい事は分かりませんが、以前選挙の時に「福祉」を強調する候補者がいて、
「もし自分が当選した時には、車椅子の人達の為に町中の車道と歩道の段差をなくす工事をして、障害者の人達にも住み良い街造りをする」と公言していたそうです。
そしてその候補者は見事に当選し、公約通り町中の歩道の段差を削り落とす工事をしたのです。
ところが驚いた事に、多くの費用と手間をかけた筈のその道路を、車椅子の人達は全く利用しなかったのです。
詳しい事は分かりませんが、車椅子というものは後ろの車輪は大きいのですが、前の車輪は(10㎝~20cmくらいか?)かなり小さいのだそうです。
ですからその車輪の半径より高い段差の所では通れないという事です。
このように、障害者の為を思って喜んでもらえるような事をするのは「善意」ではありますが、例え善意ではあっても、そこに十分な「会話」がなければ何にもならない訳です。
世の中にはこのように、十分な「会話」がなくて問題になっている事がたくさんあるのではないでしょうか・・・。
(これは2年前に書いたエッセイ、「シルバー・シートに老人は座っていますか?」を修正・加筆したものです)
お若い方はご存知ないかもしれませんが。
今日はこのシルバー・シートのお話から始めてみようと思います。
・
私は生まれてからずっと東京に住んでいますが、電車に乗っている時に、シルバー・シートというものに老人が並んで座っている姿を、ほとんど見た事がありませんでした。
印象としてですが・・・
若い頃、私は電車の中で座って本を読む事がありましたが、その時に目の前にお婆さんがつり革につかまって立つ事があり、仕方なく席を譲るという事がよくありました。
初めは何故か分かりませんでしたが、しばらく経ってその理由が分かりました。
私は電車に乗る時には、混んでいてもすぐに外に出られるようにと、ドアのすぐ横に座るクセがあったのです。
この事に気が付いてからは、電車に乗った時に試しに座席の中央、つまりドアから離れた所に座るようにしてみました。
そうしたら案の定、その後はお婆さんが私の目の前に立つような事はほとんどありませんでした。
つまりお婆さんは、「ドアのすぐ横の席に座りたがっているのだな」と感じました。
鉄道会社としては、老人の為を思ってシルバー・シートを設置したのだと思います。
これは善意です。
例え「会社のイメージ・アップ」という狙いがあったとしても・・・。
しかし老人の為を思うのなら、最初の段階で十分な「会話」が必要だったのではないでしょうか。
また設置後もアンケートを取るなどして、本当に喜んでもらえているのかを「再調査」すべきではないでしょうか。
私はこの事から、シルバー・シートなどは取り外して、各ドアの直ぐ両側をシルバー・シートにすれば良いと考えていたものです。
これならば混雑している時にも、比較的楽にドアの外に出られますから、老人が安心して座っていられると思うのです。
もちろんこれにも「会話」が必要ですが・・・。
・
最近になって思いついた事ですが、
シルバーシートなんていらなくて、ただ車内放送で
「ドアのすぐ両脇の席は、お身体の不自由な方やお年寄りの方たちにお譲り下さい」などと乗客に伝えれば良いのではないかと思うようになりました。
これならば無駄な費用もかかりません。
つまり一般の乗客の意識を変える事が大切で、これには費用はかからない訳です。
多くの費用をかけても役に立たない事が多いですから。
・
また最近では、駅のトイレに大きなスペースをとって、障害者と一般の人たちが使える個室を設置しているのを見かけるようになりましたが、これも可笑しいのです。
小さな文字の説明文を読んでみましたら、「30分で自動的にドアが開いてしまう」と書いてあるのです。
トイレを故意に壊す人間もいるそうですから、セキュリティなどの為でしょうが・・・
これは障害者の方は、「30分以内にトイレから出られる」と決めてかかっている訳です。
私は以前、痔の手術をした事があるのですが、手術前の十数年間というものは、トイレに30分以上入っているという事はザラにあるのです。
長い時には1時間も入っていた事もありますから、30分で出られる事などほとんどなかったのです。
ですから想像するに、当然障害者の方にしても30分以上入っている人もいると思うのですが、用を足している最中に急にドアが開いてしまったら・・・?
まあ、世の中にはこういう事が実に多い訳です。
・
話は変わりますが・・・。
人から聞いた話ですので詳しい事は分かりませんが、以前選挙の時に「福祉」を強調する候補者がいて、
「もし自分が当選した時には、車椅子の人達の為に町中の車道と歩道の段差をなくす工事をして、障害者の人達にも住み良い街造りをする」と公言していたそうです。
そしてその候補者は見事に当選し、公約通り町中の歩道の段差を削り落とす工事をしたのです。
ところが驚いた事に、多くの費用と手間をかけた筈のその道路を、車椅子の人達は全く利用しなかったのです。
詳しい事は分かりませんが、車椅子というものは後ろの車輪は大きいのですが、前の車輪は(10㎝~20cmくらいか?)かなり小さいのだそうです。
ですからその車輪の半径より高い段差の所では通れないという事です。
このように、障害者の為を思って喜んでもらえるような事をするのは「善意」ではありますが、例え善意ではあっても、そこに十分な「会話」がなければ何にもならない訳です。
世の中にはこのように、十分な「会話」がなくて問題になっている事がたくさんあるのではないでしょうか・・・。
(これは2年前に書いたエッセイ、「シルバー・シートに老人は座っていますか?」を修正・加筆したものです)
お忙しいところをコメントなど頂き、ありがとうございます。
最近私は「視覚障害者も楽しめるバリア・フリー・サイトを目指して・・・」というコンセプトで新しいサイトを作成していますが、そのために全盲の方たちにメールを送って意見や感想を求めたのですが、初めの内はお互いに遠慮して本音で話してはくれないのですよ。
これでは会話をしても何にもならない訳です。
ある時、たまたま討論(もしくは喧嘩?)のようになったのですが、その時にやっと本音を聴く事が出来たのです。
他人を虐めるような討論やストレスを解消するような喧嘩などは勿論良くありませんが、「違う経験」、「違う感性」の人たちがお互いを理解し合う為には、たまには必要な場合もあるのではないかと考えています。
やはりお互いに「本音」で話し合わなければ、「会話をした」とは言えないのではないかと思いました。
arataさんはきっといろんな目で物事みれる方なんですね