遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

日銀~私的見聞文字録

2024年01月03日 | 追憶
 by 日本銀行Webサイト

能登半島地震 羽田空港の航空機衝突
年明け早々大きな災害や事故が発生 居間のPC画面に何度も眼を奪われた
自身は何も出来ないが 一日も早い災害復旧や事故対策を願っている

1984(S59)年から3年弱 私は日本銀行本店内で仕事(暮れに記述済)
といっても 元職は銀行員ではなく システム開発のエンジニア(SE)
業務に関わることは 守秘義務があり会社を辞めて30年経つ今も書けない
そこで仕事と直接関係しないことを 私的見聞文字録と題して書く

或る日 行員の一人から訊かれた
「金子兜太って知っています?」「俳句を詠む人ですよね 名前だけは・・・」
「ここの地下にある金庫番だったんですよ」「え~っ! そうなんですか」
「10年くらい前かな 定年退職で辞められましたけどね」「ふ~ん」

「ところで ここでのお札の数え方 どうするか知っていますか」
「機械で数えるんでしょ 名前は知りませんが」
「残念でした 段ボール箱の数で数えるんですよ」「へ~っ、本当ですか?」
・・・ひと箱幾らかも教えてもらった筈だが 巨額すぎて覚えていない

地下金庫の広さは後楽園球場ほど・・・ガ~ン! 金の音が鳴る地下か?
出入りの札束運搬トラックが縦横に走り回っているとか いないとか
一度間違ったフリして覗きに行こうと思ったけれど・・・

 別の或る日 別のベテラン行員に訊ねた
 「若い女性行員が多いですね」
 「彼女らの平均勤続年数は2年くらいかな」 「短い!」
 「そう 出世しそうな男を掴まえれば ハイ それまでよ の世界だから」
 「掴まえられない女性だっているでしょうに・・・」
 「でも 長くて4ー5年 それ以上経つと’売れ残り’ 自分から辞めてゆく」
 だってさ・・・これは業務上知り得たことに入らないよね

仕事始めの日には 旧館は背景に 振り袖姿の彼女らが大勢写真撮影
男どもは出勤の足を止め 眼を止めていたが 実は私もその中の一人
今にして思うと 彼女らには生存競争が厳しい職場だったのかも・・・

別の或る日 別の行員さんに小声で話しかけられた
「オタク 女性行員たちの噂になっているよ」「何でです?」
「背が高くて スマートで ロマンスグレーで 素敵! なんだってさ」
「冗談でしょ からかわないでくださいよ 麻雀に負けたからって」
「ホントの話 今度彼女たちを飲みにでも誘ってやってよ」
以後の話は 守秘義務に触れるので書くことは控える

明日は仕事始め 金子兜太の世界に戻るつもり
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな写真があった

2024年01月01日 | 追憶


こんな人がいた~俳人・金子兜太~の途中だが 昨日・今日は特番!
今日は こんな人~ではなく こんな写真があった・・・
居間のPCのドライブを検索したら 忘れていた写真が色々出てきた

昨夜は除夜の鐘を聞く前に眠ったが どこの寺の鐘?


 村の外れのお地蔵さん?


 高校の修学旅行 京都か奈良か 旧友との音信も絶えて久しい 
  

いつの初詣?

 
古い建物もよく撮った


こんな店もあった・・・面白いおじさんがいた


 どこの寺?

 義弟のWebサイト 英語版(未完)もあった・・・


 上記サイトから毘沙門天像 


 本年もご愛読のほどよろしくお願いします
 それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

10年前のブログから

2023年07月02日 | 追憶

何気なく眼をやった先に、ブログ開設から222日、という表示があった。
にゃんにゃんにゃん、今日はにゃんこの日か?
このブログを始めたのは去年の11月、もう半年以上経ったわけだ。

私のブログ歴はだいぶ長く、2002年頃から始めた。
その後、NPOの関係でGooブログと縁が生まれ、2012年からGoo一筋。
が、体調を崩して5年前に中断し、休止状態。

その時はNPO法人の代表者としてのブログが中心だった。
今は、NPOの業務には関わっていないので、再開するのも躊躇われる。
そこで手枷足枷を外させてもらい、個人のブログとして始めたワケ。

そのブログが既に7か月ねぇ・・・光陰は矢の如く飛んで何処へ行くのか?
冒頭写真の撮影日は、2013年7月10日だった。
久しぶりに、前ブログのその頃の記事を読んでみた。

パソコン教室やNPO業務のことが殆どだが、そうでない記事もたまにある。
七夕の頃に、こんな記事があって、ふ~ん、懐かしい・・・。
部分的に再掲してみる。

~土曜日、下校途中の小学生に会いました。
短冊をぶらさげた小さな笹の枝に持っています。七夕か、懐かしい! 
今どきの学校でも、こういうことをやっているのですね。
 荒海や佐渡に横たふ天の川  芭蕉

芭蕉の「銀河の序」という紀行文には次の描写があるようです。
 北陸道に行脚して越後の国出雲崎といふ所に泊る(中略)
 日既に海に沈んで月ほのくらく銀河半天にかかりて星きらきらと冴えたるに・・・以下略
 
夕立が来ました。やっぱり夏の風物誌の一つですね。
 夕立ちやお地蔵さんもわたしもずぶぬれ  山頭火

時雨にひっかけて山頭火を出したのが一昨日でしたか。
これは、山頭火を取り上げろ、という催促かな?
でも、この人も気になっているし・・・



今日は久しぶりの青空です、今のところは・・・。
何だか締まりの無いブログになったが、今日はこれでお終い。
明日またお会いしましょう。

[Rosey]

思案橋探索の記

2023年02月05日 | 追憶

このところ思案橋漬けの状態である。

ネットで調べたら、各地に思案橋という名があるようだ。

遊郭あるところに思案橋あり、というわけか。

都内では、末広町の駅から近いところに、思案橋の遺跡があったという。

住所は中央区日本橋小網町、ネットの地図で見るとたしかに駅から近い。

ただ、川は暗渠として埋められて橋も無く、ただ道路があるだけ。

 

私は末広町にある会社に3年ほど出向していた。

40歳半ばの頃だから、あれからもう30年以上も経つ。

けれども当時、思案橋のことなど誰も話題にしなかった。

ということは、それ以前に埋め立てられてしまったかもしれない。

でも、何処の川のどの辺りに思案橋が架かっていたのかが気になる。

どこの遊郭か? これは浅草が近いから「吉原」と見当がつく。

 

川の名はすぐ分かった。「東堀留川」という。

以下、掲載した画像は「中央区まちかど展示館」のサイトから借用した。

ただ、ブログ掲載上の都合により適宜改変させてもらった。

まず、「東堀留川」の地図とそこに架かる橋の写真である。(「西堀留川」には触れない)

 

昭和24年に埋め立て完了。吉原遊郭は昭和33年3月31日に失くなった。

「思案橋」はすでに無い。「行こか戻ろか」どこで思案したんだろう?

上の図は地図と橋の写真を私が合成したのだが、「思案橋」の写真が無い。

たぶん戦争の混乱で写真が撮れなかったのかもしれない。

 

前記サイトに、明治時代に描かれた「新撰東京名所図会」があった。

そこに「東堀留川」「思案橋」「小網神社」と文字を入れてみた。

「思案橋」も想像していたより長い。思案のし甲斐?もあっただろう。

これだけの橋の跡地が道路だけというのも寂しい。遺跡として何か残せなかったか。

 

本家?長崎の「思案橋」はどうなっている?

思案橋の欄干の一部が残され、思案橋の名も残っていて、さすが観光地!

 

思案が尽きたところで私の探索の報告は終わり。

ただ、「吉原」で副産物があった。

図書館に通っていた頃、「吉原御免状」という時代小説を借りて読んだ。

これがすごく面白く、他に「影武者徳川家康」なども借りて読んだ。

その著者の名をやっと思い出せた。「隆 慶一郎」だった。

 

「今日のビデオ」はお休みです。

[Rosey]


「そのまま・そのまま!」「ヒラにご容赦を!」

2023年02月03日 | 追憶

 オイルショックの頃の東京の夜景

これは半世紀近い昔の出来事だが、記憶に鮮明に残っている。

総勢30名ほどのシステム開発のメンバーが、ある地方の都市で仕事をしていた。

システム運用開始の目途がついたので、事務所近くのホテルで祝宴を開いた。

お開きのあと、何人かずつに分かれて2次会へ。

仕事が残ってるから・・・事務所へ戻る数名と一緒に私もいったん事務所に戻った。

 

「警察署から電話です。責任者に代わって欲しいそうです」

私が代わって出て名乗ると、相手は当直主任の警官と名乗った。

以下はその当直主任から聞いた話の要約である。

~今夜、管轄下の風俗店何か所かの一斉捜査をした。

或る店に、お宅の会社の人がいて、風俗嬢とコトの最中だった。

踏み込んだ警察官は二人、現場写真を3枚撮った報告を彼らから受けた。

その写真は私も見ていない。すでに本署のほうに届けたそうだ。

報告書によると撮った写真は次の3枚。

①二人が重なり合う写真

②二人が離れてカメラに視線を向けた写真、これは男が腕で顔を隠していた

③そのままそのまま腕を上げて、と言って男の顔を撮った写真~

 

やけに細かい報告書を書くんだな、と記憶している。

「で、今はどうしてます? その彼」

「隣の部屋で待たしてます そろそろ帰ってもらおうかと考えていますが・・・」

「ぜひお願いします。彼も十分反省したでしょうから。彼は電話に出られます?」

彼に確認したら、スミマセン、その通りです、という答え。

そのあと、床に土下座して「ヒラにご容赦を」と懇願したが、警官に無視されたという。

「わかった。主任の人に代わって」「それで私はどうすればいいでしょうか?」

「ご足労ですが明日本署の方に行ってもらえますか? 風俗課です。

そちらでも念のため事情聴取しておきたいらしいので。彼はこれから帰します」

「よろしくお願いします。明日午前中に本署へ伺いますので」

 

朝、事務所へ顔を出すと彼が来て、スミマセンと頭を下げた。

「もう2度とやるんじゃないぞ。溜まってきたら一人でやれ」

一緒に来るという彼を、話がややこしくなるから、と断わって一人で出かけた。

警察署の受付には話が通っていて、すぐに風俗課の場所を教えてくれた。

よくTVドラマで見るような、威張った刑事が机に両脚を投げ出して・・・。

というシーンを想像していたが、応対は思ったより紳士的だった。

「ま、この写真を見てくださいよ」と出されたのが上記①~③の写真。

これだけ証拠写真があるなら、弁明は無理だ・・・と思って陳謝の一手。

「お互い、若い者には苦労させられますなあ、アハハハハ!

うちの警官二人とも初めてのガサ入れで、きっと張り切ったんでしょう。

ただ、これだけの写真があると、放っておくわけにもいかないんでね・・・。

まあ、大事にはならないよう署内は私が何とかしますから、ご安心を」

「では何卒よろしくご配慮のほどをお願いします」

 

一件落着したが、仲間うちでは二つの言葉がしばらく流行語になった。

「そのまま・そのまま!」と「ヒラにご容赦を!」である。

以上、報告終わり。

 

「今日のビデオ」

オイルショックの頃の東京夜景。NHKロゴ入り音無し映像で1973年撮影。

風俗ショックの頃だ。風俗店はソープかトルコか、どう呼んだかは記憶にない。

[Rosey]