遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

宮崎家の人々~#15「滔天・ボースを巡って・その1」

2024年05月31日 | 人物
~滔天の略年譜から~
1914/T03年(滔天44歳)
高田村(現西池袋)に新居を構え一家で住む。第一次世界大戦始まる。
1915/T04年(45歳)
衆議院議員選挙に出馬する・・・誰かにすすめられたか、自分でか分からない
その結果、最下位で落選する。(笑ってしまった!)
頭山満によるインド独立運動の志士ボースの保護、救助に協力する。

今日はこのボース(ラス・ビハリ・ボース )を巡る話がテーマ。
ボース(最前列)中央)を囲んで~拡大可能 最後列の左から2番目が滔天(宮崎虎蔵)

ところがこのボースについて、手元の書籍や電子本に何も情報が無い。
ネットでざっと調べたところでは、
・日本に亡命したボースが孫文と会い、孫文が滔天を紹介した
・新宿中村屋の敷地内の家に匿ってもらって暮らした
・ボースは、中村屋を経営する相馬愛蔵・良夫妻の娘・俊子と結婚した
・ボースは日本国籍を取得した・・・

ボースと俊子

・・・調べていると、盲目のロシア詩人なども出て来て興味深い。
というわけで明日まで情報を探しながらシナリオを組み立てたい。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#14「滔天・大逆事件」

2024年05月30日 | 人物


辛亥革命から5年ほど時代を遡る
【日本社会党結成~1906/M39年】下線人名はNDL近代日本人の肖像にリンク
1月 西園寺公望内閣発足
2月 社会主義政策が和らぐと考えた堺利彦らが日本社会党を結成
東京市電値上げ反対運動など積極的に大衆運動を展開する

【結社禁止令~1907/M40年】
2月 政府内で発言力の強かった山形有朋が社会運動の取締りを要求
治安警察法の適用による結社禁止令を発令し、党は解散する
しかし、社会主義者や無政府主義者は活動を続け、
全国各地で労働運動・労働争議が盛んに行われた。

【明科事件=幸徳事件=大逆事件~1910/M43年】
5月 長野にある工場で一人の機械工が爆弾を作り、破裂実験をした
男の名は宮下太吉、社会主義者だった 容疑は爆発物取締法違反
取り調べで、菅野スガ・新村忠雄・古河力作の3人が逮捕される


明科事件を口実に、政府や警察は各地の社会活動家の逮捕・検挙が始まる。
逮捕理由は「明治天皇の暗殺」・・・大逆事件、だが明白な証拠は何一つ無い。
(荒尾の宮崎家にも警察捜索が入ったが、民蔵も滔天も不在で難を逃れた。)

11月 米国・英国・仏国などで不当逮捕の抗議運動が起こる。
12月 幸徳秋水ら26人の大審院第1回公判(非公開)開始。

結審・処刑~1911/M44年
1月中旬 異例の速さで結審、秋水ら24人に死刑判決。
1月下旬 11人の処刑。菅野のみ翌日~冒頭の絵には12人の名入り。
なお、残り12人は明治天皇の「仁慈」で無期に減刑。これ戯作戯演也?

今日はここまで。それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#13「滔天・辛亥革命・補遺」

2024年05月29日 | 人物

中列左から2番目:孫文 後列左から3番目:滔天(1899) by Wikimedia Commons

 「民報」の発禁(※)から、石川三四郎や田中正造らに寄り道した。
 ※1908/M41年 第24期で発禁(その後1910/M43年に2巻を秘密出版)。

1910~11/M43-44年) 大逆(幸徳)事件発生→後日、寄り道する予定。

1911/M44年10月 清の湖北省瀋陽他で武装蜂起、辛亥革命が起きる。
翌年1月、孫文が臨時大統領になり、南京で中華民国(臨時政府)が成立。
しかし、革命運動は各地で続くが、清王朝の命により袁世凱が鎮圧する
翌1913年、清王朝が滅亡、野望を抱く袁世凱が中華民国大総統になる。

孫文と滔天ら一行は、日本から香港経由で上海へ到着、礼砲で迎えられた。
南京で各省代表による選挙で、孫文が中華民国臨時大統領に選ばれる。
翌年元旦に、就任式。滔天ら日本人も何人か招待された。

その後、滔天は槌と龍介を呼び寄せた。二人には初めての海外旅行。
孫文は、3人を南京の総統府に招き、長年の支援を感謝した。
荒尾の宮崎家で、孫文が刺身を食べて下痢をした想い出話を語りながら・・。

槌や龍介が、誕生した中華民国をどんな眼で見ていたかは記録が無い。
滔天は、その後もしばらく留まり、新たな自分の役割を模索する。
すでに日本政府は帝国主義、植民地主義への道を走り出していた。
そんな或る日、滔天は吐血・入院、心ならずも帰国することになる。

先の大戦前、悪化した日中関係を打開しようとする政府からの依頼で、
龍介は蒋介石に会いに行った。勿論、滔天の中国での人脈を頼ってのこと。
しかし、途中、陸軍の妨害で憲兵隊に捕まった龍介は取り調べを受け、
和平工作は失敗に終わった。

・・・憲兵本部から釈放された失意の龍介を待っていたのは、妻の燁子。

今日はここまで。それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#12「滔天・槌たちの日々」

2024年05月28日 | 人物

学生の頃の宮崎龍介~前列左から2人目

滔天一家は、1905/M38年、新宿に家を借りて暮らし始めた。
滔天35歳、槌34歳・・・子供たち龍介13歳、震作11歳、節8歳。
一家の生計は苦しく、そこに多くの中国人留学生も出入りする。
中学生になった龍介は、'新聞配達しようか'と母に言う。
'そんなことよりしっかり勉強をしなさい'と槌。

この年、中国同盟会・民報社が設立・・・革命に向けての1歩を踏み出す。
荒尾の頃から、母に苦労をかけ続ける父に、龍介は強い反感を抱いていた。
そんな父を留学生たちが尊敬・・・龍介は父や母への見方を変えて行く。

軌道に乗り始めた改革運動に、政府の圧力が日毎に強まってゆく。
それを後押しする民衆の支那人差別・排斥運動・・・
同盟機関誌「民報」などを通じて改革側も抵抗するが、その「民報」発禁。

そんなある日、槌が'龍介に金を渡しながら言う。
'神田の古着屋で学生マントを買って来て’
ボロボロのマントだった龍介、喜び勇んで買って帰った。
槌は紙袋を2つマントにくるんで命じる。’これを本郷の〇〇さんへ渡して’

槌はその時の歌を遺しているという。
''ひそひそとそらおそろしきものをしもはこぶ途中も胸おどるらん”
題して「ぴすとるだんがんはこび」。

この頃、槌は栃木県谷中村の一坪地主にもなっている。
足尾鉱毒事件で、住民と一緒になって闘う田中正造を支援するためだった。
知合いだった福田英子からの依頼であり、彼女も田中の支援者である。
田中正造は、上京の折に宮崎家を訪れ、裁判などについても槌に相談した。


田中正造の明治天皇直訴を報じる新聞挿絵(1901年)

今日は適度な材料が見つからず、我ながら面白くないが、これで終わり。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#11「滔天・寄り道~石川三四郎」

2024年05月27日 | 人物
石川三四郎(左右とも) 社会運動家・アナーキスト・作家~再掲

昨日と一昨日、石川三四郎の名が出て来た。
初めてではない筈だが思い出せない・・・。
過去ブログを調べたら、林芙美子のシリーズに出て来た。
 
再読して、正直で素直な文章だと思った。
三四郎の著作を読んだ芙美子が、彼に「序」を依頼したのだろうか・・・。
それはともかく、今回、私は初めて石川三四郎の作品を読んだ。
青空文庫では「蒼馬・・・」の他に9作品が載っている。(翻訳物は作業中の由)

「土民生活」のタイトルに惹かれて最初に読んで見た。
序文にこう書いてあった。(例によって我流要約記述である)
”デモクラシーは、米国人により悪用されて本来の意味を失っている。
ギリシャ語の本来のデモスの意味は、'土着の人々'ということらしい。
そこで私はデモスを'土人'、クラシーを'生活'と訳し、論文の標題とした。"

ところで明治の時代、英語のデモクラシーはどう訳されたのだろうか?
民主主義・・・ではない筈。三四郎の書く'悪用'とは何を意味するのか?
それはともかくとして、この'土民生活'、三四郎の考えがよく分かる。
論文とはいうものの、全11節、長い節でも20行足らずのもの。
要約記述はしないので、こちらから! 「土民生活」青空文庫

彼の作品をもう一編、「浪」。
彼はヨーロッパへ何度か旅をしている。
「浪」はベルギーのルクリュ夫妻の家を訪れた時の話から始まる。


 ポール・ルクリュ:1830/文政13-1905/M36
仏国生まれのアナーキスト・著作家・地理学者
 
夫妻から質問攻めにあううち、彼は自分の生立ちから話す羽目に。
これが三四郎の自叙伝そのものでたいへん面白い・・・私もまだ途中。
作品中、ルクリュ翁が4人の日本人アナキストの写真を見せる。(以下)

『平民新聞」編集スタッフ(明治37年)
左より右回りに幸徳秋水・堺利彦・西川光二郎・石川三四郎


今日はここまで。それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]