永井一家 1902(M35)年頃 貞二郎は日本基督教会牧師 威三郎は農学者
今日から「摘録 断腸亭日乗(上)(下)」の下巻に移る
1937(S12)年 荷風散人59歳 から下巻は始まる
01/01 午後1時に麻布の家を出 雑司ヶ谷・鬼子母神・三ノ輪・玉ノ井・浅草・
新橋・・・午後7時に帰宅 円タク・電車を乗継ぐとはいえ 健脚ぶりに驚く
~この頃「濹東綺譚」の草稿整理など出版準備に関わる記述も目立つ~
03/18 郁太郎(※1)より手紙 大久保の母上(※2)重病の由
母上方には威三郎(※3)の家族が同居するので見舞いに行きたくない
※1荷風の生母恒(つね)の父 鷲津綺堂(儒学者・官吏)のこと
※2鷲津恒(つね) 鷲津郁太郎の次女 荷風の父永井久一郎と結婚
※3荷風の弟
~荷風は04/30にも威三郎との関係”を書いているので そちらを要約記述~
04/30 母上の病状悪化を知らされるが 威三郎の家へは行きたくない
"威三郎との関係”
・彼は 私の思想・文学観を苛酷に批判している
・私が芸妓を妻にしたので 彼は同じ家に住むことを嫌い 母を説得
家屋改築を理由に旧邸を取り壊し 私を邸内の小家に移らせた
・芸妓とは縁を切るに忍びず 母も承知の上で妻とした
・だが彼は私を戸籍から除き 兄弟の関係を断った(あと4箇条は省略)
以上の理由により 私は母の臨終・葬儀にも威三郎方へ行かない
荷風と威三郎 兄弟でも犬猿の仲 あるいは嫌縁の仲という関係だったのか
09/08 母上危篤の知らせを受けるが行かない
08/09 母上昨夕死去 と知らされるが やはり行かない
~欄外朱書きで 恒の生まれから死去(享寿76)迄を略記し 追悼の2句
泣きあかす夜は来にけり夜の雨 秋風の今年は母を奪いけり~
子供嫌い 血の繋がりを否定 徹底した個人主義を貫いた荷風
昔ながらの家制度を疑わない父や母とも確執があったと思われる
自由に生きた半面 孤独と隣り合わせの人生だったかもしれない
ふと そんなことを思ったりもするのだが・・・
気がついたら文字ばかりになってしまった 今日はここまで
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]