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信濃毎日新聞主筆時代の桐生悠々
今日は悠々の家族について書く予定だった。
ところが、ネットに殆ど情報が無い。悠々自身の年譜すら見つからない。
たぶん軍部や特高等の眼から、私的な情報を隠そうとしたからだろう。
以下、悠々死後の評伝著書からの逸話を、摘記要約引用する。
妻寿々は滔天より14歳年下。滔天と同じく旧加賀藩の武士の家で生まれた。
「関東防空大演習を嗤う」を書いたため、滔天は信濃毎日新聞社を追われる。
1933年/S08年の事、その時子供は六男五女、育ち盛りが六人いたという。
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嗤う悠々はいいが、家計を預かる寿々の苦労は並大抵ではなかったはず。
それでも寿々は気丈に振舞っていたという。
子供たちの名前は1人を除いてわかった。
長男・浪男 二男・? 三男・知男 四男・幸男 五男・昭男 六男・和男
長女・須磨 二女・紫 三女・愛子 四女・京 五女・春
一家は、以前、新愛知新聞時代に住んでいた名古屋の守口市へ移る。
悠々は、家の敷地の畑で野菜を育て鶏を飼い、釣りに行っては食用にする。
とはいえ、反骨の記者魂を忘れていたわけではなかった。
翌1933年/S08年、会員制個人雑誌「他山の石」を発刊する。
内容は、外国の最新書籍の紹介と時事評論。
昼は大家族を養う農作業と釣り、夜は二階に籠って軍部批判の筆を執った。
以下、子・孫や近所の人が語る悠々の逸話を摘録記述引用する。
"川を挟んだ向こうに住む朝鮮の人をバカにしたら悠々に叱られた。
'あの人たちは家を取られて仕方なく日本へ来たのだ'、と孫。"
"農家のおじいさんだと思っていた。アンゴラ兎を飼って毛を売っていた。
遊びに行くと座敷に兎をいっぱい連れて来て遊ばせてくれた。
野菜も変わっていて、オクラを初めて食べさせてもらった"と近所の人。
"私の家に砂場を作ってくれた。ポールを建てて毎年鯉のぼりも。と孫。"
"母は、'おじいさんだったらこうする’と事あるごとに言っていました。
'立ち止まって考えろ。流されるな'とも・・・。"
"悠々の死んだ後のこと、近所のうどん屋の爺さんに寿々は言われる。
'桐生の家の者にはやらん'と配給の世話係も兼ねる爺さん。
'はばかりながらこれでも子供の親。配給の上前撥ねるあなたとは違う'
と啖呵を切るところは悠々ゆずりなのかも・・・”
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「他山の石」は8年に亘って発行されたが、発禁・削除処分が29回。
次回は、軍部批判だけでなく、日本の敗戦まで予見した悠々の話を!
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]