ケネスが呆然としたのも、不思議はない。
赤ん坊には尾ビレがあったのだ。海軍暮らしの長かったケネスは海の伝説には一通りの知識があった。海の支配者ネプチュヌス、半身半魚の海の王子トリトン、妖精ニンフネレイアデス、海の怪物クラーケン。
だが何といっても、「海の男」なら一度会ってみたいと望むのはマーメイド。
それも漁や航海に命を懸ける男たちの海への畏れと陸への郷愁が生み出した幻にすぎないはずだった。ただし、今日までは。
気を取り直すと、毎朝この海岸線をジョギングすることを知っている悪友たちのプラクティカル・ジョークではないかと疑った。だが、赤ん坊はつくりものにしては出来が良過ぎるし本物にしては現実味がなさ過ぎた。
尾ビレに触るとザラザラした感触がする。色は見事な茜色で上半身は赤ん坊特有にぷよぷよとしていたが、下半身はぬるぬるした鱗に覆われていた。
ケネスは尾ビレに触ったり軽く引っ張ったりしていた。
どうしたもんか。
その時、赤ん坊が目を覚まして自分を見つめているのに気づいた。何かを訴える眼差しだ。しかし、訴えることなどあるはずがないと思った。赤ん坊はまだ話す術を知らず、もしも知っていたとしても語るべき言葉を持たなかったはずだ。
だが、もしも話すことができたならば、人間界に一人きりのマーメイドだという心細さと同時に、いよいよ祖母に聞いた世界に入っていく期待で胸がいっぱいよと伝えたかった。
彼は考えた後、ままよと赤ん坊を連れて帰ることにした。
「今日はずいぶん早いね」
朝食の支度をしていた夏海が言った。
日本人にしては大柄な肢体に、揺れる海草のような黒髪と、それとは対照的に色白な顔が乗っかっている。目標に向かってひたむきにがんばる者だけが持つオーラが漂っていた。今日は椰子の実が描かれたアロハを着ている。
「これを見てみろ」
「まあ・・・・・・」
それっきり夏海はたっぷり五分間は口がきけなかった。
「なんてかわいい。この赤ちゃん竜延香の匂いがするわ。でも、マーメイドなんてどこで拾ってきたの?」自分のセリフがおかしくてクスッと笑う。
ケネスはやけに冷静な夏海の様子を不思議に思いながら、今思い起こしても信じられない朝の出来事を説明した。
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