近松門左衛門・書状 2009-04-20 08:14:45 | Weblog 近松門左衛門(1653-1724) 父は越前藩士。 代表的な浄瑠璃・歌舞伎作者。 代表作の「曽根崎心中」は当時の町人社会を描き出した新しい形式、 世話浄瑠璃の最初の作品である。 世の人客に来たとおもへは
英一蝶・一行書 2009-04-19 08:05:13 | Weblog 英一蝶 (1652-1724) 元禄時代の画家。 狩野安信に師事するも画風を異にして破門。 破門後、新鮮な画風で脚光を浴び名声を得る。 其角、芭蕉、紀伊国屋文左衛門などと親しい。 後に、諷刺画が幕府に忌に触れ(生類憐れみの令違反の説もある)三宅島へ流される。 大赦後、風俗絵師として大家をなす。 自ら幇間を名乗り遊郭に出入りしていたと言う。 鶴飛千尺雪
尾形光琳 2009-04-18 08:37:25 | Weblog 尾形光琳(1658-1716) 装飾的大画面を得意とした「琳派」の代表的画家。 国宝「紅白梅屏風図」は代表作。 大胆明快なデザイン感覚の作風は 現代に至るまでの日本の絵画、工芸、デザインに大きな影響を与えている。 昨日ハ御状忝拝受
貝原益軒 2009-04-17 08:43:33 | Weblog 貝原益軒 (1630-1714) 福岡藩士として重責を果たした。 引退後、 著述に専念し著書には「養生訓」「五条訓」など教育書や本草紙、思想書の多くがある。 何故か子供の頃からこの名前を知っている。 教科書のせいか。 久不通書信旦夕不勝招
徳川綱吉・大字 2009-04-16 07:49:26 | Weblog 徳川綱吉 (1646-1709) 江戸幕府第五代将軍。 凡庸であった四代将軍家綱の時代に低下した将軍家の権威向上に、 人材を登用し文治政治を推進する。 治安維持、経済政策などでも敏腕を発揮し善政を成している。 後に例の「生類憐みの令」などの悪政が施された。 綱吉の評価は二分されるが、 悪評の元になっているのは、忠臣蔵であり、黄門である。 いずれも俗説や後世に脚色された部分に因るところが多いと言う。 この字からも高い学識の人物だった事が覗える。 仁義
榎本基角 2009-04-15 08:54:05 | Weblog 榎本基角(1661-1707) 芭蕉十哲の一人。 芭蕉の第一の高弟と言われ、江戸俳諧では第一の勢力であった。 隣りに荻生徂徠が住んでいたことでも知られる。 芭蕉とは異なり酒を好み洒落者として知られる。 西鶴とも近く、赤穂藩士の大高源吾との交流もあったとされるが、 後者は逸話かもしれない。 如何にも粋人らしい書だ。 浅草川逍遥
向井去来・書状 2009-04-14 08:52:22 | Weblog 向井去来 (1651-1704) 蕉門十哲の一人。 嵯峨野に落柿舎を営んだ。 私も京都に行くと此処に立ち寄るが、 現在も門前に畑が残っており嵯峨野の長閑さを楽しめる。 野沢凡兆と編集した「猿蓑」は蕉風の代表句集。 昨八日之花墨忝
大石良雄 2009-04-13 08:24:38 | Weblog 大石良雄(1659-1703) 播州浅野家家老、忠臣蔵の主人公。 祖は藤原秀郷に遡る。 昼行灯との異名の通り通常は凡庸な人物であったらしいが、 お家断絶後の適切な対処などからその非凡さを覗える。 追書以得御意候
吉良義央・書状 2009-04-12 07:10:47 | Weblog 吉良義央 (1641-1702) 忠臣蔵の悪役として著名であるが、 領地三河では、治水工事、新田開拓などの功で領民からは名君と慕われていたと言う。 職務柄、書をはじめ文人としての教養は群を抜いていたのであろう。 華麗で隙の無い書体だ。 一筆申し入れ参らせ候
徳川光圀 2009-04-11 08:54:57 | Weblog 徳川光圀(1626-1700) 水戸藩第二代藩主。 黄門漫遊記の殆んどはフィクションとされるが、 殉死の禁止、蝦夷地の探検等は実際に行ったこととして知られる。 特に「大日本史」の編纂などの文化的な事業は高く評価される。 しかし、この文化事業が藩の財政難を招いた原因としての批判もある。 人見又左衛門方迄芳翰