清水山から阿弥陀ヶ峰・東福寺に至る山麓一帯は
かつては鳥辺野と呼ばれ、
風葬の地、死者の地でした。
関白・藤原道隆の長女として生まれ、
数14歳で、3歳年下の一條天皇のもとに入内した藤原定子。
この時代、「三后」といわれる天皇の嫡妻に与えられる地位は、
太皇太后は3代前の朱雀天皇の正妻・昌子内親王、
皇太后は一條天皇の生母・藤原詮子、
中宮は先々代の円融天皇の正妻・藤原遵子と全て占められていました。
そこで道隆は、皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離。
遵子を「皇后」、定子と「中宮」として立后させました。
995年に父・道隆が、そして次々と叔父たちが亡くなると、
政権は残った叔父・藤原道長が握ることになり、
定子は後盾を無くします。
さらに翌年、定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家が花山法皇を射る事件が発生。
懐妊中だった定子も内裏を退出し、里第二条宮に還御しますが、
そこに逃げ込んできた兄弟が検非違使に連行されるのをみて、
その場で髪を切り落とした(落飾)といいます。
周囲の反対を押しのけ、一條天皇に臨まれての再入内。
999年、第一皇女・脩子内親王に続き、第一皇子・敦康親王を出産しますが、
第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御します。
生前からの希望の地・鳥辺野に葬られました。
鳥戸野陵
静寂に包まれた地にあります。
同域に醍醐天皇皇后穏子 火葬塚、
円融天皇女御尊称皇太后詮子 火葬塚、
後朱雀天皇皇后禎子内親王 火葬塚、
後冷泉天皇皇后歡子 火葬塚、
白河天皇皇后賢子 火葬塚、
堀河天皇女御贈皇太后苡子 火葬塚
があります。
定子に仕えた女房の一人が、清少納言
彰子に仕えた女房の一人が、紫式部です。
関白の娘に生まれ、栄華を極めていた定子。
後盾をなくし、一條天皇の愛情だけが頼りだったのでしょうね。
一度、行ってみて
京都市東山区 鳥戸野陵