241018_自我02〈外の世界〉
「わたし」(自己)というものは籠の鳥のようなものだ。
ほとんど一生その中で暮らさなくてはいけない。ゆいつ禅というものがあり、僧侶になり
禅の修行をすれば、その自我という籠からでた境地を味わうことができる。
しかし、これもお寺という籠のなかの修行であり、自我の外へ出たとは言えない。
外には広大な心理的な宇宙があるはずだ。
──そこにはだれもいったことはない、と言うのは嘘だ。
我々はなにかの表紙に無意識世界を体験することがあるし、正しく意識すれば、禅の道場
より簡単に味わうことができる。
しかし、自己という鳥がどっかへ行ってしまわないようしておかなくてはいけない。
下手をすると、別人格という籠の鳥になってしまう可能性がある。ときにそこから思いも
しない世界へ行ってしまうことがある。
マイコンのプログラムにpushとpopというものがある。正確なことは忘れたが、別なルー
チンに行くのにかならず元に正確に戻るためにレジスタのデーターを退避させておかなく
てはいけない。
今現在の鳥かごは身の回りの環境だ。そして人間関係だ。それさえ忘れなければ、簡単に
もとに戻ることができる。
つまり、自分の状態を取り戻すことが出来る。
実はこれが我々の生命力というものだ。
//独裁者はこの生命力を解けない縄でしばり、鵜飼いの鵜のようにしてしまう。
さて自我の外の世界はどんなものか。ほとんど体験がないので想像で言う。
それは広大な精神の宇宙だと思う。
誰でも行くことが出来るのに誰も行ったことがない。それは意味を考えてしまうからだ。
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