(Tue)
先日、映画「カラアゲ☆USA」を鑑賞
舞台は、大分県宇佐市。
タイトルは、宇佐とウサ(USA)、米国を掛けているそうです。
宇佐はカラアゲ専門店発祥の地だそうな
田舎の実家に戻った彩音の家族模様や賑やかな「カラアゲカーニバル」。
幼馴染みの優しい心遣いなど故郷の温かさが感じられる映画でした
三重出身の瀬木直貴監督の舞台挨拶があると聞いて家族と足を運んだのでした
瀬木氏のローカル版コラムをずっと拝読してました
以前、目にしたコメント「映画の力で、人の心や街の活性化につながれば」が
この映画でとても伝わってきました。
瀬木氏の古里をテーマにした作品に着目してます。
この映画を作るようになった経緯や
大分県にも三重県と同じ「四日市」という地名の町があること、
宇佐市周辺の土地が山と海がある三重の伊勢平野によく似ている、など
舞台挨拶でお話してくださっていろいろと初めて大分県を知った気付きがありました
カラアゲの漢字は「唐揚げ」ではなく「空揚げ」が本当は正解と語っておりました。
衣をたくさん付ける天ぷら、天ぷらと違ってカラアゲは粉を付けることで
衣が空っぽである、という意味で名付けられたそうな。
鶏肉を秘伝のタレで漬け込み、粉で揚げるカラアゲ、
粉に味付けをする方のフライドチキン、その区別などのお話も面白かったです。
お話終了後、握手して頂きました~
そういえば、フライドチキン店の「カーネル像」について、瀬木氏コラムを
以前、拝読したことがありました。
「カーネル像」をあるタイガース選手に見立てて胴上げし、川に投げ込んだ事件について。
カーネルを投げ込んだのは当時、大学生だった瀬木氏の友人で
フライドチキンチェーンから損害賠償を請求されるはめになったのですが
事件後売り上げが伸びたことから、今度は感謝状を受け取った、というお話でした
力もお金もなく、無責任で世間知らずで将来への不安を抱えながらも
ばかになって笑い飛ばすことができた学生時代を
若さがかけがえのない素晴らしいことだと気づいたのは、あれからずいぶん後のことだった、と
振り返り締めくくってました
私の好きな熊野の海についてのコラムに胸を打たれました
ご紹介
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七里御浜で思う生と死:瀬木直貴/2014.4 毎日jpより引用
文字にしようとして、はて困った。
恥ずかしいことだが、あの音の感動を表現する語彙を持っていないことに、
今更ながら気がついた。
あの音とは、三重県・熊野の七里御浜に寄せては返す波のことだ。
波頭が音もなく一気に持ち上がったかと思うと、次の瞬間には体の芯まで響く衝撃が訪れる。
波と呼ぶには激し過ぎ、しかも、浜は砂ではなく砂利石でできているから、
石同士がぶつかり合う音が地鳴りのように響き渡る。
浜に海水が染み通る音がシュワーと広がり、その後に続く引き波で
シュワシュワシュワとささやくように消えていく。
2年前の夏、僕は熊野へ向かう国道42号を舞台に映画「ROUTE42」を撮った。
その構想の段階で、子どもの頃から幾度か行った七里御浜を改めて歩いてみた。
浜の石は長い年月の間、波に洗われて、きれいな楕円になっている。
指先ほどの小さなものから、人の頭ほどの大きなものまで、サイズも色もさまざまだ。
この夏に世界遺産登録10周年を迎える熊野古道の中でも珍しい浜街道で、
かつて詣でた人々は20キロ以上続くこの浜を歩いたというが、とにかく歩きにくかった。
勾配のきつい波打ち際に立つと、深いマリンブルーが目の前に広がった。
一瞬海の中に吸い込まれそうになる錯覚に陥った。
海のかなたに極楽浄土を見た熊野の思想とも無関係ではないだろうが、
そこに身を任せたが最後、死が現実のものとなる。
だが、人はかろうじてこの世にとどまろうとする。
あの世とこの世の紙一重のきわどさ、生のはかなさ、切なさ。
僕たちは実に危ういところに立っているのかもしれないと思った。
歩き疲れて、打ち上げられた流木に腰を下ろした。
少し先で、少年が一人で釣りをしていた。はぐれたカモメが波打ち際を漂っていた。
漁船のエンジン音が聞こえてきた。
犬の散歩をしている若い女性、上半身裸になって本を読むヒッピー風の男性、
トランペットを吹く初老の男性。
それぞれに生があり死があり、それを想像しているだけで時は過ぎてしまう。
昔から、人はどこから来てどこへ行くのかということを考え始めると、
切なさのあまり、胸が締め付けられることがよくあった。
小学生の頃、数年前の流行歌を聞いて、懐かしさを通り越して
常ならぬ時の流れに思いをはせ、布団の中でひとり涙した。
今思えばヘンな少年だった。自分が大人になったら、親はあの世に行き、
やがて僕も死に近づいていく。今も昔も変わらない生命の営みを、
人間は何万、何十万回も繰り返してきた。
子どもの頃から生と死を考えるようになったきっかけのひとつは、熊野の海との邂逅であり、
波打ち際に立った時の畏怖の念だったように思う。
映画「ROUTE42」は、悲しみを抱えた男女が一台の車に乗り、
国道42号を黄泉の国・熊野に向かって疾走するロードムービーだ。
物語の発想の原点は、東日本大震災で見た幾多の悲しみから得たひとつの気づきであった。
それは、死を越えて人は生き続けること。生きるとは、
死の重みを受け止めること。物語のクライマックスにこの海岸を選んだ理由は、
死の恐怖にとりつかれながらも生き続けていく人間の姿を描きたいと思ったからだ。
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