(Wed)
1月初旬の新聞記事より
印象深かったものを抜粋し
引用いたします
………………・・………・・………………
(2022/1/7)
【昭和1桁世代の弔い合戦
インタビュー 宗教学者・山折哲雄】(聞き手・小国綾子)
宗教学者、山折哲雄さん(90)は一昨年、肺炎で入院した際、
「延命治療も手術も一切お断り」と医師に告げたという。
すんでのところで生を得た今、
これからの人生を「昭和1桁世代の弔い合戦」と位置づけ、
言葉の陰影と複眼的な物の見方をこの国に取り戻そうと語る。
卒寿の碩学にその真意を聞いた。
【複眼的価値観消え、社会を覆う二元論】
――新しい年にどう臨みますか。
私たち昭和1桁は、中途半端な形で戦争を体験した世代です。
特攻隊など大きな犠牲を払った世代より下ですが、
勤労奉仕にかり出される形で戦争と関わった。
敗戦を迎えた時、私は旧制中学2年。
終戦詔勅を聞いた時、全身で解放感を覚えました。
だからこそ戦後、「民主主義少年」へと一気に変貌しました。
昭和1桁とは、戦争と平和の両方を経験した最後の世代なのです。
明治初年の新国家建設を体験した少年のように。
福沢諭吉の言う「恰も一身にして二生を経るが如く」です。
貧乏で腹をすかせ、見渡せば焼け野原。
でも新しいことに何でも挑戦できた。
だから絶望したことはありませんでした。
しかし、高度成長が終わり、今や日本が数々の困難に直面している。
貧困や格差の問題が深刻になり、若者までが閉塞感や絶望感を
抱える時代となってしまった。
――「弔い合戦」の標的は何ですか。
まずは言葉。
言葉の持つ陰影や含意が失われ、
あるいは削り取られ、一面的に
用いられているように思えてなりません。
例えば「癒やし」という言葉。
平成に入って安易な使い方が増えました。
何が何から救われるのか、主体・客体を曖昧にしたままで、
インスタントに「癒やし」を求め、何でもかんでも
「癒やしの〇〇」ともてはやす。
そんな「癒やし」はむしろ「卑しい」。
「寄り添う」もそう。
弱者に寄り添う、障害者に寄り添う……。
それ自体は大切なこと。
しかし「寄り添う」と口にすることで問題をスルーし、
具体的な行動を取らずに済む便利な言葉になっていないでしょうか。
東日本大震災後に多用された「絆」もそう。
すべてをスルーさせる「あいさつ語」のようになっている。
他方、「向き合う」という言葉が使われなくなっているようで気になります。
言葉には陰影やさまざまな含意があります。
例えば「絆」は人のつながりを示す一方、
人々を縛るくびきの意味もある。
言葉が一面的に用いられる風潮の中で、
人間の存在も、一面的に扱われているように感じます。
(略)
最後にお話ししたいのは「無」についてです。
日本人が「無宗教」という時、それは特定の宗教や宗派を
信じていないということに過ぎません。
むしろ「無の宗教」であると言えます。
宗教心は普遍的なもので、多くの人が心の底で持っている。
いや、宗教心を大事にする人ほど
特定の宗教を信用しないようなところが日本人にはあるのです。
(略)
無常、無我、無一物、無尽蔵……。
日本人は「無」という言葉が大好きです。
選挙事務所で「無」と一文字だけ書かれた書の額縁を見たこともある。
「無」とは日本人の日常感覚と深く結びついた言葉なのです。
………………・・………・・………………
いろいろハッとさせられます!
山折氏の
『例えば「絆」は人のつながりを示す一方、
人々を縛るくびきの意味もある。』で浮かんだのが
お正月に読了した森博嗣氏のエッセイ本
「追憶のコヨーテ」の100編の中の85。
部分だけ引用します
『たとえば、今の人たちは、スマホの中のアプリを
断捨離した方が良いだろう。
また、交友関係も断捨離を考えよう。
「つながる」ことで太り過ぎている。』と。
なるほど、と
『カードも減らした方が良いし、
ポイントやクーポンも太りすぎ。
写真も、撮りすぎ保存しすぎ、アップしすぎ。
溜め込んで得をしたつもりでも、
太っているのと同じで、
病気になりやすい体質を作っているのかもしれない。
維持しないといけないというプレッシャが
ストレスになるからだ。
(略)
インプットもアウトプットも、
やめられなくなるとバランスが崩れて、
最後は病気になる。』
気付きをいただきました
※お正月に読了の本
1月初旬の新聞記事より
印象深かったものを抜粋し
引用いたします
………………・・………・・………………
(2022/1/7)
【昭和1桁世代の弔い合戦
インタビュー 宗教学者・山折哲雄】(聞き手・小国綾子)
宗教学者、山折哲雄さん(90)は一昨年、肺炎で入院した際、
「延命治療も手術も一切お断り」と医師に告げたという。
すんでのところで生を得た今、
これからの人生を「昭和1桁世代の弔い合戦」と位置づけ、
言葉の陰影と複眼的な物の見方をこの国に取り戻そうと語る。
卒寿の碩学にその真意を聞いた。
【複眼的価値観消え、社会を覆う二元論】
――新しい年にどう臨みますか。
私たち昭和1桁は、中途半端な形で戦争を体験した世代です。
特攻隊など大きな犠牲を払った世代より下ですが、
勤労奉仕にかり出される形で戦争と関わった。
敗戦を迎えた時、私は旧制中学2年。
終戦詔勅を聞いた時、全身で解放感を覚えました。
だからこそ戦後、「民主主義少年」へと一気に変貌しました。
昭和1桁とは、戦争と平和の両方を経験した最後の世代なのです。
明治初年の新国家建設を体験した少年のように。
福沢諭吉の言う「恰も一身にして二生を経るが如く」です。
貧乏で腹をすかせ、見渡せば焼け野原。
でも新しいことに何でも挑戦できた。
だから絶望したことはありませんでした。
しかし、高度成長が終わり、今や日本が数々の困難に直面している。
貧困や格差の問題が深刻になり、若者までが閉塞感や絶望感を
抱える時代となってしまった。
――「弔い合戦」の標的は何ですか。
まずは言葉。
言葉の持つ陰影や含意が失われ、
あるいは削り取られ、一面的に
用いられているように思えてなりません。
例えば「癒やし」という言葉。
平成に入って安易な使い方が増えました。
何が何から救われるのか、主体・客体を曖昧にしたままで、
インスタントに「癒やし」を求め、何でもかんでも
「癒やしの〇〇」ともてはやす。
そんな「癒やし」はむしろ「卑しい」。
「寄り添う」もそう。
弱者に寄り添う、障害者に寄り添う……。
それ自体は大切なこと。
しかし「寄り添う」と口にすることで問題をスルーし、
具体的な行動を取らずに済む便利な言葉になっていないでしょうか。
東日本大震災後に多用された「絆」もそう。
すべてをスルーさせる「あいさつ語」のようになっている。
他方、「向き合う」という言葉が使われなくなっているようで気になります。
言葉には陰影やさまざまな含意があります。
例えば「絆」は人のつながりを示す一方、
人々を縛るくびきの意味もある。
言葉が一面的に用いられる風潮の中で、
人間の存在も、一面的に扱われているように感じます。
(略)
最後にお話ししたいのは「無」についてです。
日本人が「無宗教」という時、それは特定の宗教や宗派を
信じていないということに過ぎません。
むしろ「無の宗教」であると言えます。
宗教心は普遍的なもので、多くの人が心の底で持っている。
いや、宗教心を大事にする人ほど
特定の宗教を信用しないようなところが日本人にはあるのです。
(略)
無常、無我、無一物、無尽蔵……。
日本人は「無」という言葉が大好きです。
選挙事務所で「無」と一文字だけ書かれた書の額縁を見たこともある。
「無」とは日本人の日常感覚と深く結びついた言葉なのです。
………………・・………・・………………
いろいろハッとさせられます!
山折氏の
『例えば「絆」は人のつながりを示す一方、
人々を縛るくびきの意味もある。』で浮かんだのが
お正月に読了した森博嗣氏のエッセイ本
「追憶のコヨーテ」の100編の中の85。
部分だけ引用します
『たとえば、今の人たちは、スマホの中のアプリを
断捨離した方が良いだろう。
また、交友関係も断捨離を考えよう。
「つながる」ことで太り過ぎている。』と。
なるほど、と
『カードも減らした方が良いし、
ポイントやクーポンも太りすぎ。
写真も、撮りすぎ保存しすぎ、アップしすぎ。
溜め込んで得をしたつもりでも、
太っているのと同じで、
病気になりやすい体質を作っているのかもしれない。
維持しないといけないというプレッシャが
ストレスになるからだ。
(略)
インプットもアウトプットも、
やめられなくなるとバランスが崩れて、
最後は病気になる。』
気付きをいただきました
※お正月に読了の本
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