(Sat)
佐治博士が新著「14歳のための物理学」を出版された記事を読みました
「14歳と銘打ったのは今までの出張授業の経験から、中学二年生の授業が
一番印象深かったことと自分の幼少時代のことを考えると、
子供と大人の中間で、しかも、受験には間があるという安心感から、
知的好奇心に素直に対応できる柔軟性があると感じていたからです。」とありました☆
そこで思い出すのが孔子の論語の中の一節です、と
佐治博士のコラムで紹介されていたものが
「子曰く、
吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)う。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」でした。
聞き慣れた「四十にして惑わず。」という言葉には前後にも文章があって
孔子の論語の一節だったんだ、と初めて知ったのでした
「古今東西を問わず、理想的な歳のとりかたのお手本なのかもしれません。」と。
そして以前、拝読した佐治博士のコラムで
「秘すれば花なり」の言葉にも前後に文章があることを知ったのでした
「秘する花を知る事。
秘すれば花なり。
秘せずば花なるべからず。
この分け目を知る事、肝要の花なり。
(世阿弥の花伝第七、別紙口伝の一文)」
佐治博士の「花に秘めた芸の深さ」のコラムが
とても心に響き考えさせられましたので下記に引用させて頂きます
--------------------------------------------
現代にも通用する芸術論であり、演奏論ですが
風姿花伝を含め、美の象徴としての花をあらゆる視点から
取り上げながら芸の深さを論じているところが特徴です。
ですから「花」という言葉の説明も多種多様な表現で、
数学のような定義はできませんが、敢えて言ってしまえば
「観客の心に思ってもみなかったような感動をもたらすもの」と
いうことになるのでしょうか。
別の言い方をすれば、開花に対する新鮮な驚きを能の
美的感動にたとえているとも言えます。
そして能の花を咲かせるのは役者の工夫であり、
その花の種は稽古だとも言っています。
しかも風姿花伝第三の問答条々の中では、
盛りをすぎて萎れていく花にしかない
しみじみとした情感を「しほたれる」と言い、
この趣を表現するためには、特別の稽古や芸風もないのですから、
これは「花」よりも上位にある境地であると論じています。
種から開花し、萎れていくまでの全プロセスが
花の美しさなのです。
さて秘密にしておかねば花にならない、という
冒頭に引用した一文ですが、
その心は、観客が花だというところを知っていると、
新鮮な驚きも感動もなく、従って、
観客はそれが花だとも知らずにいてこそ、
演者が芸の花を咲かせることができるという意味です。
(略)
ノバーリスの言葉を借りれば
「すべての見えるものは見えないものにさわっている」、
そして、サン・テグジュペリ流に言えば
「だいじなものは目に見えない」ということでしょう。
(佐治晴夫・鈴鹿短大学長=宇宙物理学)
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佐治博士が新著「14歳のための物理学」を出版された記事を読みました
「14歳と銘打ったのは今までの出張授業の経験から、中学二年生の授業が
一番印象深かったことと自分の幼少時代のことを考えると、
子供と大人の中間で、しかも、受験には間があるという安心感から、
知的好奇心に素直に対応できる柔軟性があると感じていたからです。」とありました☆
そこで思い出すのが孔子の論語の中の一節です、と
佐治博士のコラムで紹介されていたものが
「子曰く、
吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)う。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」でした。
聞き慣れた「四十にして惑わず。」という言葉には前後にも文章があって
孔子の論語の一節だったんだ、と初めて知ったのでした
「古今東西を問わず、理想的な歳のとりかたのお手本なのかもしれません。」と。
そして以前、拝読した佐治博士のコラムで
「秘すれば花なり」の言葉にも前後に文章があることを知ったのでした
「秘する花を知る事。
秘すれば花なり。
秘せずば花なるべからず。
この分け目を知る事、肝要の花なり。
(世阿弥の花伝第七、別紙口伝の一文)」
佐治博士の「花に秘めた芸の深さ」のコラムが
とても心に響き考えさせられましたので下記に引用させて頂きます
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現代にも通用する芸術論であり、演奏論ですが
風姿花伝を含め、美の象徴としての花をあらゆる視点から
取り上げながら芸の深さを論じているところが特徴です。
ですから「花」という言葉の説明も多種多様な表現で、
数学のような定義はできませんが、敢えて言ってしまえば
「観客の心に思ってもみなかったような感動をもたらすもの」と
いうことになるのでしょうか。
別の言い方をすれば、開花に対する新鮮な驚きを能の
美的感動にたとえているとも言えます。
そして能の花を咲かせるのは役者の工夫であり、
その花の種は稽古だとも言っています。
しかも風姿花伝第三の問答条々の中では、
盛りをすぎて萎れていく花にしかない
しみじみとした情感を「しほたれる」と言い、
この趣を表現するためには、特別の稽古や芸風もないのですから、
これは「花」よりも上位にある境地であると論じています。
種から開花し、萎れていくまでの全プロセスが
花の美しさなのです。
さて秘密にしておかねば花にならない、という
冒頭に引用した一文ですが、
その心は、観客が花だというところを知っていると、
新鮮な驚きも感動もなく、従って、
観客はそれが花だとも知らずにいてこそ、
演者が芸の花を咲かせることができるという意味です。
(略)
ノバーリスの言葉を借りれば
「すべての見えるものは見えないものにさわっている」、
そして、サン・テグジュペリ流に言えば
「だいじなものは目に見えない」ということでしょう。
(佐治晴夫・鈴鹿短大学長=宇宙物理学)
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"どのくらい" "去年より" "どこよりも" などは
何らかと比較されて 窮屈に想うクエスチョンですネ(汗
山アリ谷アリを潜って 自分らしい花を咲かせられれば いいですネ☆
お花の全プロセス 人の生きる道と似ているような…☆
花の美しさなのです。
ここ・・・・。
何かにつけて「結果」を求められる現代、
「開花」の状態はどうだった?
どのくらい咲いてた??
見に来た人の人数は?
去年より咲いた数は増えた??
どこよりも早く咲かせたか?
一番長く咲かせたか・・・?
等など・・・。
「花」はどこへ行ったのだ???
と、ゆーことが多いので
このようなお言葉は救われる気がします。
冬も必ずあるんでね。