私は信仰に入って間もなく、このみことばを知ってとても感動した。
これこそキリスト教なんだなあ・・と感動して、ヨブのような信仰が欲しいと思った。
「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(ヨブ2:10)
しかし、ヨブはつぶやくようになる。本音で語るなら、神様の試みをつぶやかずにこのように受けることができる人なんてありえない。だから、イエス様は「こころみにあわせず」と祈ることを教えてくださったのだ。人はそれほど強くも正しくもないから。
「幸いを受けるなら、災いをも受けなければならない」その言葉に私は疑問を感じた。信頼する者に神様が災いを与えることはあり得ない。神様が与えるのは「悪しきこと」ではなく、より深く神様を知るために備えられた「試練」であるはず。神様は信頼する者にとって終始「愛なる方」であり、良い計画をもっておられる方であるとヨブ記を読んで知ることが出来た。
ヨブは子ども達のために全焼の生け贄を捧げていた。それはヨブの心に神様への信頼だけではなく、自分の行いによって、子どもを神様から守りたいという思いがあったのじゃないかな。
「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」(ヨブ3:25)確かにヨブには恐れていたものがある。
ヨブの妻が「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ2:9)とても、酷いことをいっているけれど、家族には本人よりも心の内が見えていたりすることがある。
ヨブの捧げていたものが「自分の誠実」によるものなら、
「だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。」(ヨブ41:11)このように言われてしまう。
でも、神様はヨブをこのように言われる。
「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」(ヨブ1:8)
ヨブは確かにどんなになっても神様の御前から去らなかった。自分を弁護し言いつのりつつも御前にいた。神様の正しい裁きを求めていた。理不尽に思えることのなかで
「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。」(ヨブ6:24)と語り
「あなたの御手は私を形造り、造られました。それなのにあなたは私を滅ぼそうとされます。」(ヨブ10:8)
「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」(ヨブ9:33)ヨブはイエス様を求め、
「だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。」(ヨブ13:3)そして、神様はヨブのその願いを叶えられた!
「あなたが呼んでくだされば、私は答えます。あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう。」(ヨブ14:15)このヨブの言葉は神様へのすごい信頼だと思う。神様の愛を信じきっての言葉。
「私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。」(ヨブ14:17)ヨブのイエス様を求める声。
「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(ヨブ16:19)
「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」(ヨブ16:21)ついにヨブはイエス・キリストを知った。
理不尽な苦しみの中で、理不尽を一身に引き受けてくださったイエス様を知ったヨブ。これこそ神様は決してサタンの口車にのせられて、ヨブを気まぐれに苦しめられたのではないことがわかる。「幸いを受けたのだから災いをも受ける」なんてことではないとわかる。
試練は神様の良い計画である。災いではない。自分の誠実や、自分の行いや、自分の良きなにかによってイエス様を知ることはないから、神様は私たちを導いてくださる。主なるかたとの深い愛の関係に。そのためには神様は私たち求める者にいつでも親しくみことばを解き明かし平安を満たしてくださる。
神様はヨブにメッセージを語ってくださった。ヨブはそのメッセージを聞いて、何も反論することはなかった。神様が語ってくださった喜びに満たされていたのだろう。このとき、ヨブは神を神として本当に畏れることを知ったのだ。
友人は理解も同情もなく、冷たく正しい言葉で非難し続けたけれど、イエス様を知ったヨブは完全に癒されていた。だからヨブは友人のために神様にとりなして祈ることが出来た。試練による傷は、神様に出会うとき完全に癒されることを知った。
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石ころ
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