さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた(ヨハネ13:1~2)
「イエスは、彼らを最後まで愛された」(新改訳2017)とある。
イエスの愛を知らず、知ろうともしない者の心に、サタンの「思い」はすんなりと入り込むのだ。
イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。(ヨハネ13:3~5)
主に在る者のきよさがどれほどのものであるか、どれほど愛されている者であるかということを、目だけではなく、耳だけではなく、感じだけでもなく、汚れをゴシゴシと洗われる記憶によって、叩き込めれる必要があるのだ。主との愛の交わりを刻み込まれる必要があるのだ。
なぜなら、その愛の記憶が薄らぐ時、サタンが汚れを持ち込むからである。
こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13:6~7)
信仰生活に「なぜ」という疑問が尽きる事はないけれど、イエスさまの十字架を知る者はすべてに「アーメン」と言うようになる。後ですべてがわかるからである。
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
イエスさまに洗われた者は一々洗われる必要は無い。もうきよいと主が言われたのである。
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。(ヨハネ13:10~11)
たとえイエスさまに足を洗われても、メッセージをくりかえし聞いていても、御わざを目の前で見ていても、イエスさまをサタンに売る者は汚れる。きよさはイエスさまに留まる者の受ける恵みである。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。(ヨハネ13:14~16)
キリスト者はその立場の上下に拠らず互いに足を洗い合う関係であり、互いに仕え合う関係である。
イエスさまは、ご自身は御父に勝らずと明言されたのである。すべてに御父に服従されたイエスは、人を「最後まで愛して」仕えてくださった。
あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。(ヨハネ13:17)
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