石ころ

わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見る(ヨハネ12章)





イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。(ヨハネ12:37)

イエスさまのしるしを見た人々の、3通りの生き方が書かれている。
見ても信じない人々は、
「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」
イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。(ヨハネ12:39~41)


人は、イエス・キリストの十字架のみわざに拠ってのみ救われる。イエスさまを救い主と礼拝することによって救われる。
初めに神さまによって選ばれ、イエスさまを信じるに至った者としては、ただ、ただ、感謝の他に言葉が無い。しかし、誰が選ばれているのか・・それは最後まで人にはわからない。明日信じるかもしれないからである。

しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。(ヨハネ12:42~43)


しるしを見て信じたが、告白することはなかった沢山の指導者たち。
彼らが貧しく無力なただの人なら、駆け引きするものを持たず、真っ直ぐに信仰告白することができたであろう。
今もイエスさまの近くに居ながら世になびき、十字架で流された血の値を天秤にかけることがあるなら、それはどれほど主を侮ることであろう・・。

また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。(ヨハネ12:45~46)

イエスさまを信じた人は、みこころのままに永遠のいのちをたまわる。そうして、信じた瞬間から光の中に住むようになる。
みことばは「足のともしび、道の光」であり、この世に在っても闇はなく、イエスさまに信頼する日々は、光の中であって世で迷子になることはない。

救いは世の初めに神さまによって選ばれことにあり、救われた者はその選びに対して、イエスさまを礼拝して応答しただけである。なんという恵みであろう、なんと安心なことであろう。
キリスト者は、今がどの様に見えようとも、真っ直ぐにされた平らな道を、天を目指して走っているのである。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4)

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