私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。
私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。(2~3)
迫害は人を喜ばせる言葉ではないから起こる。不純や騙しごとの誤魔化しが無く、人の顔色を伺うことなく、真っ直ぐな神のことばが罪を指し示すから、人の肉性は激しく抵抗して、黙らせようとするのである。
むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。(4)
パウロたちが激しい迫害に耐えて、神のことばを真っ直ぐに語り、神に委ねられた福音を差し引かず、おもねる言葉を付け足さないのは、キリストの十字架の御救いに与らせるためである。神と共に喜びを分かち合いたいからである。
あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。(5~6)
「神が証人です」と言える生き方は、世で激しい迫害を受けたとしても、なんと光栄な生であろう。この世はアッと言う間に過ぎ去るものであり、主こそ永遠だからである。
永遠の誉め言葉を持っている者にとっては、この世の誉め言葉は取るに足りないことである。
キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、
あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。(7~8)
パウロたちは与えられている権威を振るわず、教える者の前で幼子の心をもって謙遜に優しく、命を注ぐ母親のように養い育て、父親のように励まし模範を見せて導いた。その指導者の素晴らしい姿は、聖霊の細やかな導きによる完全な姿である。
兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。
また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。(9~10)
迫害の中で命を掛けて伝える福音は、昼も夜もただその一つがすべてであって、それは彼らのうちにおられるキリストの熱心でもある。このことは聖霊に満たされて成ることである。それゆえ、恐れなく「神が証人」と言い切れるのである。
また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、
ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。(11~12)
キリスト者は、創造主なる神を「アバ父」と呼ぶ家族である。
パウロたちは神の兄弟たちが成長して、召しにふさわしく歩むように勧めた。召された者は御国の栄光を現わす者であれと命じたのだ。
こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。(13)
パウロたちの、行いを伴って語られるみことばを受けた人々は、語られたみことばを素直に受け入れた。
福音が聖霊と、愛の奉仕によって明確に語られたからである。
彼らはみことばを、聖霊によって神のことばとして受け入れた。その信仰によってみことばは、彼らのうちに生きて働き成長させるのである。
そのことはパウロたちの苦闘に対する慰めとなり、喜びであって神への感謝となった。
此処には、語る者と聴く者の素晴らしい模範が示されている。高い崇高な模範を知ることにより、日々目標を定めて主に歩むことができるのである。