コメント感謝します。長くなりましたのでこちらでお返事させていただきます。
私は牧師さんや先生方の聖霊による体験については、お話を伺ったことも質問したことも無いのです。教派にも関心がないので全く知りません。
なのでご質問にちゃんと答えられるかわかりませんが、私の知る限りを子羊さんにお話しできることは嬉しいです。
自分の経験からお話します。私の聖霊のバプテスマの体験は、台所での突然の出来事でした。キリストの十字架の赦しときよめを焼き付けられる経験でした。まだ、洗礼も受けておらず「聖霊のバプテスマ」という言葉さえ知らない時でした。ただ真理を求めていました。
異言は後に知識を得てから求めて与えられました。初めは霊の賛美でした。それから言語として流暢に話せるようになりました。ただその言葉の意味はわかりません。
その後に預言が二度与えられましたが、預言をしても破壊が止まることはなく実現してしまった時、良い実を結ばない預言の意味が分からず、もう嫌ですと言って止みました。
主はたまものをそれぞれにお与えになります。どのようにしてかはみこころのままで、神様の最善によること思います。一人ひとりの信仰が違うように、その方法も時も同じではないと思います。主にマニュアルなどないと思います。
使徒2章では使徒たちが同時に受けたのですが、あの時は状況が差し迫っており、教会を建て上げる働きのために特別だと思います。
私はほとんど毎日、霊の賛美、異言の祈り、知性の祈り、みことばによって主を礼拝します。霊のことは意味がわからず感情は働かないのですが、霊の賛美は捧げものであっても、自分の耳で聞いて心地良さを感じるので感謝です。すべてはたまものを受けた者として、用いる責任があると思ってのことです。
とう祈って良いのか分からないときに異言の祈りはとても助けになります。「主が聞いていてくださった。最善をしてくださる。」という確信が得られるからです。そうすると見える所が最悪であっても、平安が守られ主を待つことが出来ます。
子羊さんが辛い思いをする宗教から抜けて、完全に関係を絶つことが出来て本当に良かったですね。
私の思うことですが、誰に、何処で、どのようにして洗礼を受けたり、聖霊のバプテスマを受けたかということは問題ではないと思います。
子羊さんの願いを主がご存じで成されたことだからです。主は良い方なので、主を求める者にみこころ以外のことは成らないのです。
あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。(マタイ7:9)
大切なことは、私たちが主を知りたいと願いみことばを求め続けることだと思います。それは主を愛してのことだからです。そのためにたまわった賜物を何時も用います。すべてそれらは主に繋がる大切なパイプだからです。いや、血管だと思っています。
私たちは他の人のことはわかりませんが、主のことを知ることこそキリスト者として、みこころを行う力となります。
聖霊はそのことを成させるために、私たちの必要を満たそうと共にいてくださるのです。
不安も疑問も子羊さんが直接主に信頼して祈られるようにお勧めします。そのとき主がご真実な方であることを経験することが出来ます。
私たちのことを知り尽くす主に祈りつつ、日々ゆっくりとみことばを生きてゆきましょう。共に携挙の日を待ち望みつつ・・。