わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(10)
御父の戒めイエスの戒めとは御愛の中に留まること。主の愛に応答して愛する方に聴き従うことは喜びとなる。その人が「なぜですか」と理由を問うことは無い。すべての疑問を封じるのは無条件の愛をたまわったからである。
わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。(11)
命をたまわった主の愛を離れて何処に行けようか。イエスに安息している命は恐れを知らず、大胆にアグレッシブに生きるようになる。そう、父母と居る幼子は、愛の言葉に満たされて勇気凛々なのである。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(12~13)
イエスが愛してくださった愛は十字架で私の罪の恥による苦痛を経験して、負った罪のゆえに御父に捨てられて死刑に処せられたほどの愛である。
誰がそのような愛を真似ることができるであろう。誰がイエスのように他人の罪を負い、その汚れの故に神に見捨てられ、嘲りの中で死ぬことを選び取ることが出来るであろう。
しかし、主に信頼してみことばに従うことを求める者には、助け主なる聖霊がいてくださる。私たちの願いを叶えるために導いて、主の戒めを成し遂げさせてくださるであろう。
ユダ以外の使徒たちはイエスの戒めを完全に守って、会ったことも無い子孫のために福音を伝えて殉教し、またヨハネは、全生涯を捧げて神と共に在る永遠の住み家を伝えた。
彼らはキリストの愛に応答して、人類を友として愛し主の戒めを成就したのである。
わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。(14~15)
私たちがキリストの十字架に拠る永遠のいのちをたまわったのは、無数の名も無き人々がイエスを愛して戒めを守り、命を捧げることに拠って守られて来たみことばに拠る。
聖書にはイエスの戒めを守った多くの人の愛が詰まっている。それゆえ私たちも喜びに満たされてイエスの愛を知らせるのである。
それはしもべの働きではなく、友と呼ばれてみことばを解き明かされた者が、進んでキリストに従順し必要のすべてを満たされつつ、主と働くことが出来る大いなる喜びである。
聖書には神のひとり子イエスをたまわっるほどの愛が語られ、御子イエスが命を捨てて、罪の結果である滅びから救ってくださった事実が記され、このみことばを信じる者に永遠のいのちが約束されている。
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(16)
産まれる前から万物の創造者に愛され、良き御計画のもとに母の胎で組み立てられた命である。そうして、いのちの主であるイエスに出会う時を備えてくださった。
私たちが弱さの中で、愚かな罪の中でイエスの愛により頼んだ時、堅く閉ざされていた霊の目が開かれて一方的な神の愛に浸され、世で迷っていた命は安息したのである。
自分の中には良いものが何も無い事を知り、愛するための愛をもキリストに求める時に、神の選びが人の選びの真逆であって、わざわざひび割れた器を選んで用いる神の方法は、世では見たことも聞いたこともないものであった。
世では優れたものが選ばれて劣るものは捨て去られる。生きることの重荷を負いきれずイエスに救いを求めたとき、十字架の血潮で洗って罪をきよめ、もう醜い傷口を見て心を痛めることがないまでに癒やして、みことばを語って永遠の望みに満たしてくださる。
救われた者がイエスの御名によって父なる神に願い求めることは、未だ主を知らずみことばが開かれないままに、サタンに引き回されて世で苦闘している魂の救いである。
あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。
世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。(17~18)
イエスの命じる互いに愛し合う愛は、御父と御子の愛から出た愛であり影の無い完全な愛である。それは人の知らない愛であり、イエスのように死に至るまで仕える愛を成就するのは、聖霊の助けによって完成するのである。
世は天地創造の神を知らず、神に愛され良い計画を持って母の胎で組み立てられたことも信じないので、真実な愛がわからないゆえに、イエスだけを礼拝する愛が理解できずに、自分たちに同意しない頑なさを憎むのだ。
イエスを愛するキリスト者を憎む世は、その前に神であるイエスを憎んだのだと言われる。救い主とも知らずに憎しみを抱いてしまうことは、憐れであり恐ろしいことである。
もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。(19)
キリスト者が、天地創造の神をのみ愛して人の作った偶像を憎むのは、それらは神が愛しておられる人の魂を惑わし、永遠の滅びに引き込むものだからである。
サタンは、神々を愛し、金銀を愛し、立身出世を愛する者を育てる。人の魂が造り主を忘れて世に現を抜かすことを応援して、救のために残されている時間を消耗させる。
サタンは神に愛されて造られた人間を妬んでおり、自分たちに定められている永遠の滅びに引き込んで神の悲しみとするためである。
イエスの愛が真実であることは、歴史に在るとおり、十字架を負って死んでくださったことでわかる。
イエスはご自分の命を罪の代価として支払い、信じる者のいのちを罪の結果である永遠の滅びから買い取ってくださったのである。
しかし、サタンは何の犠牲も払うことは無く命の時を奪って滅ぼすものである。