イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」(41~42)
すべては、アダムが神に逆らって罪を犯した時に、決められたとおりの人類救出計画である。イエスさまが世に来られたご計画を、人の手を通して黙々とご自身に執行される。此処に一貫しているのは三位一体の神の愛である。
そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現れた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。(43)
弟子のひとりのユダと書かれている。この時点でもまだユダは弟子であった。
イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。(マタイ26:50)
イエスさまは私たちが間違った時、ギリギリまでも悔い改めるチャンスを備えて待っていてくださる。向きを変えて悔い改めることを、私たちの失われるのを惜しんで待ってくださる。イエスさまに悔い改めるに遅すぎることはない。ご自分を売り渡す間際のユダに対してさえもそうなのだから・・。
イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」
それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生」と言って、口づけした。
すると人々は、イエスに手をかけて捕らえた。(44~46)
ユダの神への無知と愚かさと、愛を知らずに哀れで恥知らずな挨拶の口づけ。彼はイエスさまにも最後まで救い難い人間であった。
イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」
すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。(48~50)
神のキリストを剣と棒で捕えようとする人の愚かさ。彼らもイエスさまの数々の奇跡を見聞きして来たのである。権力に唯々諾々と従う時、人は思考停止して様々な愚かなことをしてしまうのだ。しかし、その責任は彼ら自身が負うことになる。
イエスさまは、彼らにご自身を渡して旧約聖書の預言を実現される。
ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。
すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(51~52)
イエス・キリストに付いて行く信仰を、ふわりと聖さを装って出て行くことは、あまりに無防備で愚かである。
真理の帯を締めていない者が、布の端をめくり上げられたなら罪の素肌を曝されて逃げ回ることになるからである。この不完全な裸を守るためには、誰でもキリストの武具を身に付けていなければならない。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペソ6:11.13.17)
すべての武具の上に救いの兜を付けて、救われた印しである自分の十字架を負って、キリストについて行くのである。
兜は身を守るためのものである。「それでもクリスチャンか」と責められて引き下がるなら、キリストの恥を曝すのだ。
キリストの赦しの完全を証する十字架の鍬形を立てて、不信仰の中に働く敵の脅しに立ち向かうのである。それはキリストにたまわった完全な武具であり、何時でも何処ででもぴったりと身に付けているものである。裸の恥を曝して逃げないために。