あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べるとき、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。(12)
この箇所を思い巡らせていて洗礼を思い出した。洗礼を受けてその組織の一員とされには、それなりに支払うべき犠牲がある。
それはキリスト信仰を告白すると、行動も考え方も180度変わるようになり、人に倣って生きて来た者が、みことばによって、イエスを第一に生きる者に生まれ変わるからである。
世に生まれて見えるものに命を掛けて来た人が、目では見たことも無いキリストを、みことばを通して見るようになり、命を賭けて愛するようになるからである。それゆえ、初めに神の選びとキリストに導く聖霊の助けが必要なのである。
その時、聖霊によって自分自身が神の民であることを確信するようになる。自分のたましいが、御子をたまわるほどの神の愛を受けていることを悟るとき、キリストの平安に包まれて、魂の居場所が明確になることで、人は安息を得るのだ。たとえ戦場に在っても・・。
あなたがたのたましいのために宥めを行おうと、主に奉納物を納めるときには、 富む人も半シェケルより多く払ってはならず、 貧しい人もそれより少なく払ってはならない。(15)
神の民のたましいの価はみな同じなのである。タラントはそれぞれであり、それによって捧げられるものもそれぞれあるが、たましいの価は神の前に同じであり、記念として残せる分も同じである。
神の愛は何の差別もなく、すでに一人ひとりを100パーセント愛しておられるからである。
今、聖霊に拠ってみことばから主を親しく知ることで、神の愛を日々に満喫しているのである。キリスト者のわざわいとは、みことばの悟りを取り去られることである。
どれほど愛されていても、主を知ろうとしなければたまわている愛を味わうことは無く、キリストの平安も知らず、明日を思い煩って世を彷徨うことになる。
ヨハネは「イエスの愛された弟子」と自称しているが、今私たちは聖霊によって導かれるみことばを味わい、ヨハネに勝る確信をもって「キリストに愛れている私」と告白し続けるのである。
キリストによって神の子と天で数えられてあり、神の愛の充満のうちに生きているからである。そう、永久まで・・。