石ころ

空の墓(ヨハネの福音書20章)

 

 

さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。(1)

 

マタイには「もう一人のマリヤ」も一緒だったことが書かれてあり、此処ではそのことは省略されているが、ルカにも「彼女たち」とあるので事実は二人であったと思われる。

 

それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(2)

 

此処にも「私たち」とある。この経験は混乱状態の中にあったことが分かる。まさか、死体が消えるとは想像もできないからであり、ましてそれが愛する方であればなをさらである。

 

そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。(3~4)

 

ヨハネが面白い。こんな時にもイエスを思う熱心は、ペテロよりも早く墓に着いたと記している。

 

そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。(5~7)

 

ヨハネは墓の前で躊躇していたが、後から来たペテロが墓の中に飛び込んで行く様子が目に浮かぶ。イエスの復活はこのように細かな描写によってリアルである。
イエスが選ばれただけあって、このコンビは競い合っているようで互いを補い合っていた。

墓は空っぽであった。そう、イエスには墓は神のみこころを完成して通過するところであり、神であるイエスは永遠の御座に生きておられ再び来られる方である。主信じる者を天に迎えて地のすべてを裁き、神の義を完成するお方である。

 

そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。(8~10)

 

この時彼らが信じたことはイエスのことばではなくマリアの言葉であった。しかし、いのちを与えるのは人の言葉ではなくみことばである。
見たままが事の真実とは限らず、初めから終わりまでをご存じの主のみことばに照らす必要がある。それには静まって主を待つ、そう、死を見ても待つのである。

 

人は絶望の中で混乱する時がある。すべてが終わったと思う時がある。祈ることも聖書を開くことも出来ない混乱の中で、死んだようになってもなを待つのは、イエスは生きておられるからである。

 

一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。(11~12)

 

空の墓に留まる彼女をイエスに導く御使い。キリスト者には導く御使いが居られ、危急の時に現れて助ける約束がある。彼女は御使いに訴えることによって混乱した心を落ち着かせた。
マリアは御使いを普通に受け入れている。確かに御使いは普通の人のようであり、聖画のような羽もなく会話が出来る。

 

彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。(13~14)

 

イエスが分からないのは、彼女がイエスの死を見ていたからである。彼女は生きて居られるイエスに会いに来たのではなく、イエスの遺体に会いに来ていたからである。

今も、イエスをどなたと心得ているか。生きて働くイエスと出会うことを願うのではなく、動かぬ偶像のように思っているのではないか、それならたとえ名を呼ばれていても、イエスの御声だと耳が認識することはない。

 

イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。(15~16)

 

マリアはイエスの御声を聞いた時に、生きておられるイエスを認識して喜びのあまりイエスに縋りついた。
何時もみことばに親しんでいるなら、そのみことばを思い出した時に、生きて働くイエスに出会うことが出来る。

 

そう、キリスト者は一時苦難の中でイエスを忘れるようなことがあっても、親しんで来たみことばが聞えたら、絶望は永遠の望みに一瞬に変わるのである。そうして、聴いたその永遠の望みを伝えに走る力を得る。

 

イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」(17)

 

もうイエスは彼らの主だけではなく、全人類の救い主であり彼女はそのキリストに出会ったのである。イエスは、人類の歴史の中に神が遣わされた唯一無二の救い主である。

イエスは御父の御許に昇り、御霊に満ちた復活のからだを持って弟子に現れ、そのイエスから分け与えられた霊によって、霊である神との交信が可能になるのである。


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