主はモーセに告げられた。
「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。 わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。(11~13)
安息を守ることは創り主なる神を忘れないためであり、神と人の関係は此処から始まり、聖別された者としてみことばに拠って生きるための命令である。
あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。
六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は主の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。(14~15)
すべての初めである天地創造を終えて安息された日として、神に倣って労働の手を止め神がどの様なお方であるのか、自分が何者であるかを静まって悟る日であり、人は何度知らされてもその事実をすぐに忘れて、そう、たった六日間のうちにも、偉大なる神の備えに在ることを忘れてしまって、自分の命をどう守ろうかと思い煩う者である。
これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。(17)
安息とは安らぐことである。神がすべてを備えてくださった七日目には、人もまた安らいで神の御わざを喜ぶ中で従順を現わせと命じられた。
命のすべてを備えて完了してくださったことを、味わい経験するために休むのである。手を止めて座り、主がただで備えてくださった天地を味わうのである。
休まないことは神の働きに目を留めず、天地創造の主に感謝の時ももたず、自分を中心にして生きることであり、すべての初めである方を無視することである。
みことばに従えないのは、思い煩いによって世に縛られていることが多く、それは主を経験していないからである。生きて働くみことばの力を知らずに、一人で頑張り続けて逆らっている。神の備えてくださる良きものを経験するには、みことばに従順する他ないのである。
安息日を守らない者は切り離されるとあるのは、みことばに従順しないことで神を知るチャンスを失うからである。
命を養うために働く手を休め、みことばに従って安息し、主が完成してくださった天地の御わざに安らぐとき、人は思い煩うことから解放される。
神の偉大さを知って人は謙遜になり、自分が何ものであるかを悟るからである。そこに祝福はあり、安らぎの中で知ったみことばが生き生きと働いて、受けている神の祝福に目が開かれて愛に安息するのだ。
それは人の考えや、能力や、頑張りによって得た評価とはまるで違う、永遠に続くキリストの平安による神との関係が待っているのである。
求められているのは従順であり、静まって安息し全能の神を味わい知ることである。世で六日間で働いて七日目には神に身を捧げるということではなく、生きるための世の労苦から解放されて、すべてを完成してくださった神の恵みに、満ち足りる日なのである。
みことばの約束を新しく味わって主と交わり、信仰の家族と共にみことばを語って励まし合い、共にキリストに憩い、永遠の望みを分かちあう日である。
明日携挙かもしれない望みに在る者が、拠って立つべき生ける神のことばを確認し合うのである。
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。(18)
今はキリストのあがないを通して、うちに居られる聖霊の働きに拠り、キリスト者は世に現されるキリストのことばであり祭司なのだ。そう、真っ直ぐに天地創造の神を宣べ伝えて、すでに完成されている永遠の安息を分け与える者である。
あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(Ⅱコリント3:3)