私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。(7~8)
いよいよキリストと教会の婚礼を控えて、花嫁はキリストに相応しく完成された。それは花婿キリストが準備してくださった、完全に罪をあがなわれた白い衣、神の義を着せられることである。
聖徒の正しい行いとは、キリストのあがないを信じ、みことばによって十字架の血潮に洗われた事実に、安息していることである。感謝をもって花婿キリストを愛し、神の愛のご計画に心から従順していることである。
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。
そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」(9~10)
神の祝福を保証することばを聞いたヨハネは、喜びと感動のあまり天使にひれ伏したのだ。
イエスを証するすべての言葉は神の霊によることであって、人や御使いの聖さや優れた能力によるものではない。
用いられた事実はあってもそれだけのことである。よく準備されたメッセージを聴いて教え導かれる時、そのメッセンジャーを尊敬して仕え、すべてを受け入れて頼りたくなるものであるが、それは神の妬みとなりその方の益にはならない。
それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。(ヤコブ4:5)
私たちを愛する神の愛はそれほどに強く、神への愛が完全であることを求められるからである。
私たちは神だけを拝み、主にのみより頼んで成長させられる者である。良いメッセージを聴くことは楽しいことであるが、それは神を分かち合う喜びである。それでこそ健全な姿で神を喜ばせる関係である。
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。(11~13)
真っ赤な衣を着て真っ白な馬に乗っておられるキリスト。私たちの罪のあがないのために流された血潮の色である。礼拝する者に真っ白な衣を着せるために、人の罪を洗った血の色である。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)
天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。(14~16)
主の戦士の衣は真っ白でなければ戦うことができない。サタンは罪を訴えるものであり、罪に足台を置いて責めるからである。あがないのみことばの剣をもって戦うのである。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)
また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、
王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」
また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。(17~19)
キリストは「義をもってさばきをし、戦いをされる。」方である。イエスは地では神の愛を説いて、迫害する者とも戦うことはなくすべての人に仕えて、十字架の死にまで従われた方であるが恵みの日は過ぎ去る。終わりの日には神のさばきを、義によって遂行される方である。
すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。
残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。(20~21)
その日は、すべて神に逆らうものがさばかれ、キリストの完全な勝利の日である。