石ころ

天の賛美と地の賛美(黙示録19章)

 

この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。
神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」(1~2)

 

神の義の成就を、喜びほめたたえて天に沸き起こる賛美。神を知るものが、神のさばきを素直に喜ぶことができるのは、自分の感情には拠らない聖なる喜びであり、悪への報復を喜ぶのは、主にある家族愛によることである。神の義が成る喜びは、神が居られることの証明だからである。

 

彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」
すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ」と言った。
また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」(3~5)

 

天地創造の神と救い主をほめたたえることは、人にはもっとも喜びに絶えないことであり、賛美に召されることはこの上ない栄誉である。それも、取るに足りない小さな者も同じように参加してほめ歌うとは・・。

 

私は音符も読めず声もでないので、賛美に加わることが恥ずかしかった。しかし、憐み深い神さまは、何時でも自由に歌える霊の賛美をくださった。この小さな者にも、主をほめたたえる自由をくださったから、朝毎にたまわった声で主をほめたたえる。

 

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)

 

此処には「心の底から」とあるけれど、腹の底から声があふれて来るから、みことばを聴く前にまず賛美によって霊を開くとき、素直に声に出すのに少しの従順が必要なのは、それが感情には拠らないからである。それは捧げものだから・・。

 

また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。(6)

 

此処での賛美は世の賛美とは全く違う完全な喜びであり、神の義が成されてほめたたえる完全な賛美であろう。
しかし今、世に在る賛美には涙も混じっている。

 

真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。(使徒16~25)

 

このパウロとシラスの賛美は霊の叫びであろう。理不尽な苦痛の中で、神のさばきを呼び求める叫びである。それゆえ、深夜に囚人たちも一つの心になって耳を傾けたのである。その叫びが彼らの知らないものではなかったからである。

 

誰でも世に愛しく思うものや、愛する人々がある。しかし、その人々が福音を受け入れることは、神がその一人ひとりにお与えななった自由であり、そこにキリストの心を持つ者の叫びもあり、もどかしさと悲しみが混ざているのだ。

 

賛美は感謝と喜びだけではなく、神への叫びでもあり哀願でもある。特に霊の賛美は交わりと同時に嘆願でもあって、それらを主にすべてお委ねして、みこころがなりますようにと捧げる賛美である。

 

そのような賛美も天で主にまみえた時、目の涙すっかり拭われて、曇りのない心で神をほめたたえる歌となるのだ。そう、この天上の大賛美のようになる。


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