
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9:2)
心ない弟子の言葉にも何も言い返せなかった人が、イエスさまのお言葉に従って、ベテスダの池で目を洗って癒しを経験した後は、イエスさまのことと、自分のことをはっきりと語るようになった。
近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。(ヨハネ9:8~9)
彼は目が見えなかったこと、イエスさまが癒してくださったことを、誰はばかることなく語ってもう人を恐れなかった。イエスさまが癒されたのは目だけではなく、虐げから人格を解放して生きる力を与えられたのだ。
パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。(ヨハネ9:15~16)
イエスさまを罪人だと訴える指導者に向かって、恐れることなく自分に起こったことを通して、イエスさまを証言した。彼は指導者に向かって対等に事実を話している。
彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」(ヨハネ9:17)
神のわざは知りたくない人には見えない。目の前で起こってもそれによって神を知ることはない。彼らは頑なに目を閉じて、都合の悪い事は見ようとはしないからである。
しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」(ヨハネ9:19)
「どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」(ヨハネ9:21)
人を恐れるなら、自分の子を守る事もできない。親子であってもイエスさまを知ることは、一人で経験してゆく必要があるのだ。
そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9:24~25)
「神の栄光を帰せよ」という言葉は時にキリスト者には脅しにもなり、これに耐えるにはイエスさまを経験していることが必要である。
「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」(ヨハネ9:27)
どんなに偉い人に、何度問い詰められても、彼の強みは経験した事実をそのまま語ることにあるのだ。
彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」(ヨハネ9:28~29)
彼らはいつの間にか癒された人をイエスさまの弟子と認めた。癒されてイエスさまを証言する者は弟子である。このことを彼らが口にしたことは、彼にとってはこの上もない名誉である。
しかし彼らの言う通りに、宗教者である彼らがイエスさまを知ることはないのだ。
彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。(ヨハネ9:30)
奇跡は起こす方は「天から来られ神に決まっているではないか!」と言う、彼らの無知に対するとてもストレートな言葉である。あなたがたは宗教の専門家ではないか、なのに知らないのかと・・
「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。(ヨハネ9:31~34)
イエスさまを「神のみこころを行う方」と語る彼のメッセージは、反論も反証もできない言葉として成長していた。
彼らはこの元盲人のメッセージに対して、大勢の力で組織の外に追い出すことしかできなかったのだ。
指導者の厳しい取り調べや圧力に対応している間に、彼の生きる力は健やかに賢く成長していた。
キリスト者の受ける圧迫は、キリスト者を成長させて神を証するチャンスとしてくださる。それは恐れる事ではなく、それらはキリスト者を成長させる食物となる。
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(ヨハネ9:35~38)
彼は来てくださったイエスさまに会って、今まで学んで来た方をはっきり見て、良く知って礼拝したのだ。
「主よ。私が信じることができますように。」はキリスト者の日々の祈り。目の前の出来事を通して「主を信じることができますように。」、「主を知ることができますように。」、「御名があがめられますように」と祈る。
イエスさまは彼に来て、これからは世の組織ではなく天に国籍のある者として、神の養いの中で生きるようにしてくださったのだ。