石ころ

非常に重い神の愛 ③(ヨブ記)

 

なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。
なぜ、ひざが私を受けたのか。なぜ、私の吸う乳房があったのか。
今ごろ、私は安らかに横になり、眠って休み・・(3:11~13)

 

ヨブは孤独な苦しみの中で死を願う。それは生かされる神への反抗だが、その中で天にある平安を信じて死を求めている。
神さまは良きご計画をもってヨブの反抗に忍耐して、彼の成長を待ってくださる。
私たちの不信仰にも、神の忍耐の中で信仰を導いていてくださる。命があるなら、ヨブも私たちも日々成長して行くからである。

 

私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかった(3:25)

 

ヨブの信仰の奥に潜むものが露わになって出て来る。それは、神の大いなる祝福の中にあって、潜んでいた恐れである。

芋虫は溶かされてさなぎになり、動けなくなってから蝶に完成されるように、信仰も神のご計画のままに、生まれつきでは動けなくなる死を経て、まったく新しく誕生して平安を得るのである。

 

何もできなくなった時に、それまでの行ないによる信仰が揺さぶられる。彼の信仰は神の愛による恵みに満足していたのではなく、自分の行いに満足していたのである。


ヨブの不安は、耳の後ろから聞こえる細い御声、その警告が聞こえたことを現わしている。
神は何事も、予め知らせずになさることはない。しかし、忙しくそつの無い行いは、その御声を聞き流してしまっている。

 

すると、テマン人エリファズが話しかけて言った。
もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう。(4:1~2)
さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。(4:7)

 

なぜ黙っていられないのか。それはヨブの姿が何時か自分にも成ることへの恐れである。彼の平安のためには、ヨブの災難の原因を探し納得できる理屈を求めているのだ。

 

エリファズ 
一つのことばが私に忍び寄り、そのささやきが私の耳を捕らえた。
夜の幻で思い乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、
恐れとおののきが私にふりかかり、私の骨々は、わなないた。
そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、私の身の毛がよだった。(4:12~15)

 

確かにエリファズは、ヨブの災難に眠れないほどおびえている。彼を脅すものは神ではない、神はおどすことをなさらない。
皮肉なことだが、もし神が脅す方であったら信じる人がもっと起こされるのではないか・・と思う。愛は伝わりにくいが、脅しは即座に効果がある。

 

エリファズ
それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けることができなかった。しかし、その姿は、私の目の前にあった。静寂…、そして私は一つの声を聞いた。
人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。(4:16~17)

 

サタンも悪霊も宗教を教える。それは彼らの道具であって、自分自身を訴えさせて平安を奪い、互いに訴え合ってキリストの救いの十字架を踏みつけ、神の権威を貶める。

 

それはみことばと非常に似ているが、三位一体の神である聖霊の臨在が無いのだ。
ヨブ記で語られる多くの教えはこれである。ヨブ記で神はご自身を語られるが、教えを語らず無視される。

 

エリファズ
見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる。
まして、ちりの中に土台を据える泥の家に住む者はなおさらのことである。彼らはしみのようにたやすく押しつぶされ、
彼らは朝から夕方までに打ち砕かれ、永遠に滅ぼされて、だれも顧みない。
彼らの幕屋の綱も彼らのうちから取り去られないであろうか。彼らは知恵がないために死ぬ。(4:18~21)

 

神はしもべを信頼されて、御子キリストを十字架にたまわった。今も忍耐して関り続けてくださるのは、信頼してくださっているゆえである。
神はしもべを幕屋の内に出入りさせて、死なない者とし、子としてくださった。取るに足りない者をも・・。


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