私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。(1~2)
パウロは、かって大祭司さえも説得した雄弁を用いるなら、わかりやすく尊敬を受けたであろう。しかし、すべての尊敬はキリストのものであり、パウロはそれを恐れた。
彼はこの働きを聖さに分かち、すべて聖霊により頼むことに決めていたのだ。
「知らないことにした決心」とは、神の知恵に拠らずにはどんな事も判断しないということ。
あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。(3~4)
内なるキリストの現れを求めるとき、とっさには自分の言葉を失ってしまって、聖霊にことばが満たされるまで、口を利けなくなることがある。
それは他人には愚鈍に見え、何を考えているのかわからず苛立ちを与えるのだろう。
パウロは知恵あることばによって、イエスをキリストと知ったのではない。聖霊による経験によって、神のキリストを知ったのである。
それゆえ、自分が知ったように伝えようとしている。主の家族とは、みことばによる交わりを保とうとしたのだ。
それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(5)
パウロが与えようとしたものは、生きて働く神のことばである。それはどんな状況にも知恵を与えて、永遠に変わることのないことばであり、信頼するとき神の保証がついて来るものである。
しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。(6~7)
偉人がどんなに立派な言葉を語り業績を残しても、時間の中でその価値は移り変わり、永遠にその価値を保つことはない。
明日もわからぬ人の賢さによって、世の初めの計画にある神のことばを伝えることが、どれほど相応しくないかがわかるのである。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。(9~10)