神のご計画は、何時までも同じ祝福が続くというわけではなく、成長によって祝福の形は変わって行く。それが突然の不正や災いを受けているようであっても、そこでも主はご計画通りに勝利を準備していてくださる。
イサクたちはアビメレク王から、居心地の追い地を突然追い出された。迫害されていても、行く先で井戸を掘る度に水があふれ出た。次々に争いによって奪われても、井戸を掘る時いのちを養う水はあふ出た。
主が命じる戦いでない限り、主に在る者は戦うことができないから逃げるのである。
パウロたちも激しい迫害によって、町から町へ追われ追われた。そうして福音は全世界に広がって行ったのだ。
ただ彼らは何処に行っても井戸を掘り、みことばを語り続けた。それこそが神のご計画を成就するものである。
掘れば水を出させてくださり、語るべきみことばを備えて広めてくださるのは神のわざである。
神は初めに、モーセに岩を打て言われ(出エジプト17:6)、その通りにすると水があふれ出た。
次は、岩に命じるようにと言われた。(民数記20:8)しかし、モーセはみことばに従うことなく、過去の経験に依って岩を打った。それでも水が出たことが恐ろしいのである。
みことばに従っていないわざは神の栄光とはならず、モーセが神のわざを横取りしたことになり、それによって彼は新しい地に入れないまま死ぬこととなった。
忠実な信仰の最後になって、取り返しのつかない失敗が聖書にしるされた。(申命記32章)このことは私たちへの戒めとしてのことであろう。
攻めることにも退くことにも、勝利にも敗北にも、それがみことばに拠るならそこに主の栄光は現わされる。
新しい地に出ることを恐れる必要はなく、主に従って今日、語られるみことばに聴き耳を立て、日々に新しい展開の中で主を知ることは、祝福であり喜びなのである。
生きているということは、絶えず変化しつつ成長していることであり、神のご計画も、私たちの成熟のために、昨日と同じ今日ではなく、日毎に主を知る知識を増し、それを経験させて主の深みに導いてくださるのである。
先のことに心を留めるな。
昔のことに目を留めるな
見よ、わたしは新しいことを行う。
今、それが芽生えている。
あなたがたは、それを知らないのか。
必ず、わたしは荒野に道を、
荒れ地に川を設ける。(イザヤ43:18~19)