
昨夜床の中で聞いていたみことばのテープ、うつらうつらと聞いていたのだけど、「えっ」と意識が鮮明になった箇所を今日は開いて読み返した。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』」(マタイ11:26~30)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」クリスチャンだった祖父の家にかかっていた額のみことば。小さい頃からいつも見慣れた言葉だった。
「どんなふうに休ませるのか・・・」幼いときに父を亡くし、唯一頼りとなる母も12歳で病死した後、祖父の家で朝晩見るそのみことばに抱いていた疑問だった。しかし、毎夕薄暗い部屋で背を丸めて祈っている祖父に聞くことはなかった。私の期待するようには答えることは出来ないだろうと思っていたから。そんなに単純な問題ではないと何となく思っていた。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と続いていたんだ!私もクリスチャンになってこの箇所を何度も繰り返して読んでいるのだけれど、気がつかなかったのは28節があまりに強く心にあったからだろう。
みことばを切り取ってはいけないといつも言われるsaltさんの言葉を思い出した。みことばに新しく出会えたような感じ。幼い頃からの疑問が解けた喜びもある。みことばの疑問は単純に聖書の中に答えがあった。それも続きに書いてあった。それが何十年もかかって解けるとは・・。でも、このことに主のご真実を思った。主は、私の祈りにもならない問いさえもお忘れになることはないんだ。
信仰が長いだけで本当は何にも分かっていないのに、なんか分かったように思ってしまって気づくと思い上がって・・・。でも、選ばれたのはこのことによるのだった。
「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」
今、勝手に悩んだり苦しんだりしている。そんな魂にこびり付いた信仰歴の垢のようなものを洗い清めるように、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」イエス様のおことばが染みこんで行く。
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