人は、聖霊の助けによって良い働きをすることがある。しかし、イエス様は良いわざをもって世の王とはなられなかった。極悪人のように最も過酷な刑である十字架にかけられたのである。
このことは、今キリストのわざを成したとしても、それが必ずしも好評を得て終わるわけではないことを現している。世はどん欲に自分の満足を求め続けるから・・。
もし、世の評価を追い求め喝采に留まろうとするなら、どんどんキリストからは無縁のものとなって行くしかないだろう・・。イエス様が世の喝采の中にとどまることなどありえないように、私たちもそこに居続ける者ではない。
そもそも、その良いわざが主から出ている事を知っているなら、ひとり世で好評を得ることには、ずいぶんと居心地の悪い思いをするものだ。
主に在って真実であろうとするなら、イエス様を「ホザナ、ホザナ」とエルサレムに迎えた民が、数日の内に「十字架にかけろ」と叫んだように、世に手のひらを返す非難をされたとしても驚くことはいのだ。イエス様がそうであったのだから・・。
もし、世の評価に留まるための方法を模索するなら、聖霊によって始まったことが変質してしまうことになるだろう。
主に拠って始まった良いことは、人の評価にはよらず「主に在る」ということにおいて価値がある。
人はいつまでもそこに留まる者ではなく、用が終わればさっさと主の置かれたホームポジションに戻るべきである。主に在る者が、いつまでも世の良い行いに忙殺されていてはならない。
キリスト者は世に良い行いをするために居るのではなく、主のご用を果たすために御前に居ることこそが重要なのだから。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)
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