イエス様の十字架の贖いによって、守れもしない律法の呪縛から解かれた自由の子が、再び奴隷に引き落とされてはならない。パウロはそのために教会を熱心に見張っていたことがわかる。
自由の子は神の作品であり、救いの喜びを持って、あらかじめ備えられた良い行いを、与えられた自由の中で行うことができるのだ。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)
そのことは、神の作品であるからできることなのであって、人の努力にはよらないことがわかる。そう書いてあるのだから・・。
奴隷は強いられないと何も出来ない。奴隷は幸せではなく、人の顔色を見ながら最低限度のことしかできない。彼らには自由がないからである。そのような中に喜びも感謝も生まれようがない。だから、絶対に奴隷とされてはならないのだ。
実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。
私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。(ガラテヤ2:4~5)
律法主義が忍び込まないように「一時も譲歩することなく見張っている。」と書かれている。今もそれほどに注意を要する事柄なのだと言うこと。福音の真理が保たれるための努力が常にはらわれなければならないのだ。ぼんやりしていてはすぐに奴隷に落とされる危険があるのだ。
誰かが信仰を間違えそうになった時、ペテロに抗議したパウロのように、真っ直ぐに伝える勇気も必要なのだろう。それはパン種のように、あっという間に教会を変質させて行ったことが書かれていて恐ろしいことだから・・。(ガラテヤ2:11~13)
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。(ガラテヤ2:21)
みことばが切り取って使われることがある。「神の恵みを無にはしません」だけを切り取って律法に貼り付けると、真逆に使うことが出来るのだ。サタンはみことばを用いて真理をねじ曲げることさえするから。
だから、一歩も譲歩することなく見張っていることが必要なのだ。
しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ2:16)
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