また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」(1)
これらはイスラエルが奴隷であったエジプトを脱出する時に、神さまがモーセを通して行なわれた奇跡に似ている。
エジプトの奴隷となったイスラエルは、奇跡によってエジプトから解放されたが、導きの途上で神を疑った世代が荒野で死んだ。
次の世代に神の祝福は委ねられたが、御子の救いを受け入れず、此処に神の怒りの災いを経験するなら、それはどれほどの神さまのお悲しみであろう。
約束の民イスラエル人であろうと異邦人であろうと、へりくだってイエス・キリストの御救いを受け入れない者を救うことは、神の義によって出来ないことである。
そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。(2)
獣の刻印を受けず、獣の像を拝まずに救われる人々がいる。いのちを捧げるまでの飢えと貧しさを受け入れた人々である。獣の刻印を拒否して世からはじき出され、仕事も食べ物も手に入れることができなくなった時、その人の避けどころは天に開かれている。
この時、彼らを追い詰めるどんな計略も何の役にも立たなくなる。聖徒の死は永遠への脱出であるから。
朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:54~55)
第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。
第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。(3~4)
海は世界につながっている、神のさばきは世界に及ぶのだ。すでに世界は良いことにも、悪いことにも非常に近くなってしまっている。
キリストの血により頼んだ人は、永遠のいのちを受ける。それを拒否して裁きの血を飲むことになるのは、神の望まれたことではないのだ。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「今いまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。
彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」(5~6)
聖なる正しい方には、たとえ十字架で人の罪を負われたイエス・キリストでさえも、負った罪ゆえに見捨てなさる。神の義は罪を受け入れることができないからである。
御使いの言葉は神の正義をほめたたえて、殉教者をあがなう正当な言葉である。彼らは自分の血を注ぎ出してキリストの御足跡を、自分の十字架を負って歩んだ者である。
また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」(7)
信仰によってキリストに落ちる者は、粉々に砕かれて謙遜をたまわり、礼拝して救われるが、
キリストがその人に落ちる時は、遠く吹き飛ばされて悔い改めることさえ不可能になるのだ。
「この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」(マタイ21:44)
第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。
こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。(8~9)
危急の時に出来ることは、いつもしていることである。日々に御名を呼ぶ者は「イエスさま!」と力ある方に叫ぶことができるが、
「なぜ神は助けないのか!」と訴えている者には、悔い改めてへりくだることは出来ず、呪いの言葉が止まらないのだ。
第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行いを悔い改めようとしなかった。(10~11)