わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(ヨハネ17:11)
十字架を前にしたイエスさまの祈りは、私たちが御父と御子のように一つに保たれる守りが込められてあった。
神の御名の中に在って、御父と御子のつながりと同様の一つとなる。そのつながりがどれほどのものであるのか・・及びもつかないことである。
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。(ヨハネ17:23)
御子と御父の関係に在って全うされる私たちの一つ。それは、御父が御子を愛されたように、私たちが御子に愛されていることを世が知るためである。その愛の確信が私たちになくては、どうして世に知らせることができるだろう。
からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。(エペソ4:4)
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(Ⅰコリント12:27)
私たちの一つはキリストのからだとしてである。キリストのからだの各器官であり、からだのそれぞれの器官は、互いの働きを知り尽くすことはない。それは神に賜ったタラントによってそれぞれの役割を持っているからである。
からだの器官は頭であるキリストのためにある。聖霊によって互いに繋がれて互いのためになくてはならないものであるが、互いを知り尽くすことはない。
ただ、頭なるキリストはすべてをご存じである。聖霊はそれぞれの器官に相応しく導いて、からだ全体のために必要を満たして働かせるのである。
各器官は互いをいつも意識しており、一部が苦しむとすべての部分が苦しむのが体の仕組みである。
その苦しみは聖霊を通して頭なるキリストに伝えるものである。ご自分のからだの苦しみを負われるのはキリストである。
イエスさまは御父に、からだによって栄光を受けましたと祈られた。
わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。(ヨハネ17:10)
YouTubeなどで良く準備されたメッセージを聴くと、この時代に生まれたことに深い感謝を覚える。主を知ることは今生きていることの感動であり、「アーメンアーメン」とみことばを分かち合うほど楽しいことはない。
それは、キリストのからは一つだと深く味わう時である。ただ、一人の人がみことばを語り尽くすことはない。それは一つの器官にすぎないからである。だから常に聖霊の臨在によって、聖書も互いの言葉も悟るのである。
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