聖書に種なしパンが出て来るのは、ロトがソドムを訪れた二人の御使いに振舞ったものだった。急なことでパン種の準備が出来なかったのだろう。それは御使いのために準備されたものであることを現わしている。パン種の入らないパンは新しいものである。
その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。
そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。(7~8)
エジプトを脱出する夜に食べる種なしパンは、新しい出発に際しての食べ物であり、子羊の肉と共に食べるものであって、新しい門出の祝いのためである。
神のことばにより頼んで住み慣れた地を後にする時、たとえそれが奴隷の地であったとしても、望みがなければ動けないものである。
しかし此処には神の命令にのみ頼り、人の言葉による希望を付け足さずに、男だけで60万人女子供を加えたら百万以上にもなる人々が、モーセに従って旅立つのである。それが新しい日々に向かう旅の備えであった。
イエスが最後の食事をされたのも種なしパンの祭りであり、イエスが過ぎ越しの種なしパンを食べられて、新しい歴史が始まるのであった。
それは、イエスが十字架にかかられる前夜であり、キリストの御父への完全な従順によって、罪をあがなうキリストの血が支払われた時、律法によっては救われない罪びとの救いが成就したのである。
エジプト人は民をせき立てて、その地から出て行くように迫った。人々が「われわれはみな死んでしまう」と言ったからである。
それで民は、パン種を入れないままの生地を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担いだ。(33~34)
エジプトを立ち去る時、彼らにはパン種を入れたパンを準備する時間は与えられなかった。それは神の守りである。ただ、神ことばのみに信頼して、住み慣れたエジプトを出て行く民の純粋を守られたのである。
レビ記に、「パン種を入れてはならない。聖なるもの」としてパン種のないパンが記されているが、パンは命の必要であり、種なしパンは創造主なる神にのみより頼んで生きる者を聖めて、霊を魂を体を養ういのちとなる。
12章ではパン種が繰り返して語られている。それは、エジプト脱出の歴史に働かれた神の御わざを、永遠に覚えての記念とするためである。
神の民のためになされた十回の奇跡、その御わざを喜びほめたたえて祝うためであり、その御力を恐れて代々語り伝えて、神を頼りとして生きるためである。
また、不従順のために犠牲となったエジプト人の長子の死も、同時に語り伝えて覚えているためである。昔も今も、創造主なる神を否む者には死が待っており、それは自分だけのことではないのだ。
それにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを食物のささげ物のうちから、彼らの取り分として与えた。それは、罪のきよめのささげ物や代償のささげ物と同じように、最も聖なるものである。(レビ6:17)
祭司に与えられるパン種のないパン、キリスト者はみな祭司であり、キリストの血潮によって聖なる者である。聖いパンによって生かされてあり、純粋なみことばに拠って、日々をみこころのままに捧げて生きる者である。
ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。(1コリント5:8)
パリサイ人のパン種は古いパン種である。律法から解放するキリストの十字架のあがないを認めず、神の救いによって栄光を現わすことをしなかった。
それは新しい永遠への出発を妨げている。
誠実で真実なパンの祭りとは、福音の恵みを喜びほめたたえて生きることである。今は永遠に向かう旅路にある。