「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。
わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。(4~7)
アブラハムとサラに神が新しい名前をくださった。そこからアブラハムは信仰の父となり、サラ(女王)を母として生まれるイサクを通して、神の民が増え広がって行くのである。このことは、神の契約ゆえに神が実現してくださることである。
次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。
あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。(10~13)
割礼は神の民として聖め別けられたしるしである。体に印されることによって絶えず神の民であることを覚えるのである。それは他の何かには依らぬ誇りとなり、永遠への望みと平安となり、聖い生き方となるように。
また、家に居るすべての者がこの契約に入れられたことは、国籍に拠らず血筋によらず神に身を寄せる者を保護するためである。
今、新約の時代はキリストのあがないによって、体ではなく霊の目覚めのうちにキリストを覚えて生きるようになった。キリストによって国籍や血筋にはよらず、神のうちに在る者は神の家族とされ、永遠の望みが保証されている。それは私たちに代わって、キリストが十字架で血を流してくださったからである。
また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」
アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」(15~17)
みことばをアブラハムは腹の中で笑った。「ありえない」と・・。みことばを示されたときに笑うのは、全能の神に目を留めず自分の肉を見たからである。この世の現実という肉の世界を見ているからである。
神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。(19)
神が「いや」とアブラハムの笑いを否定して、忍耐を持って将来を明示してくださったことはどれほどの大きな恵みであろう。
いつもアーメンと読んでいる「神にはどんなことでもできる」というみことばが、一旦自分の身に大きなことを示されたとき、人は真っ先に自分自身を省みて拒絶するのである。それは先祖代々身に付けて来た、常識という城壁を飛び越えられない不信仰ゆえである。
もし神のことばが人の何かによって、可能になったり不可能になるようなものなら、すべてのみことばがその一瞬に雲散霧消してしまうことであり、神の国は私たちと何の関係もないものとなるだろう。
アブラハムが神のことばを聴いた時にサラによってイサク生まれたのである。後は時間差の問題である。
私たちは神の祝福のことばを聖霊の導きの中で、聖書から受けたら時間差をもって実現する。数秒後のこともあるが数十年後のこともある。
そのような経験の中で神のご真実を味わい、みことばにひれ伏す信仰が成長して行くようになる。
しかし主は、即座に「アーメン」と言って喜び踊る者に、深い平安と交わりの満足を満たしてくださる。そう、それは肉の汚れを知らない幼子の信仰である。