「死にかけている娘を助けてください」という会堂管理者の願いによって、イエスさまは彼の家に向かわれた。しかし、途中で娘は「亡くなった」という知らせが届く。
イエスさまは「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われた。
彼はイエスさまの言葉を聞きつつ黙って家に向かって歩いた。間に合わなくさせたのは押し寄せる群衆であり、途中で割り込んできた女の癒しのためであったが・・。
彼はこのことに何も言っていない。生死を越えて、あらゆる状況を越えて、イエスさまの言葉が彼の中で一番になっていたのだ。信じるとはこういうこと。
彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
イエスさまのお言葉を笑う者は外に出される。信じるためのわざさえ見られなくなるのだ。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。(ヨハネ14:11)
側にいることがゆるされたのは、弟子三人と、ただ信じてイエスさまを案内してきた父と母だけであった。
そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。
少女は、イエスさまのことばの力によって起き上がり歩いた。
イエスさまに救われた者もただ、みことばの力によって信仰生活を生きるようになる。それは全く自分の力ではない。
イエスさまは、見ることを許されなかった者には語ることも禁じられた。変貌の山でもその様子も話すことは禁じられた。ヨハネもパウロも秘密を持っていた。時が来るまで語れない言葉がある。
少女は此処で生きて行く。誰もが彼女を見るが父母は何も説明する必要はない。ただ、食事をさせて・・夜は寝て朝は起きそうこうすればよいのである。主は証し人を仕立て上げることはされない。
彼女はイエスさまに頂いたいのちのままに生きて行けばよい。彼女の内に蒔かれたいのちが神の栄光を証しするからである。主は群衆の歓声ではなく小さないのちを通して栄光を現してくださる。
群衆の歓声は、すぐにも「十字架につけろ」という声に変わるものであることをご存じだから・・。
この時、ペテロとヤコブとヨハネ以外は一緒に行く事を許されなかった。変貌の山(マタイ17章)でも一緒に行く事を許されたのはこの三人だけであった。
「信じるために備えれたわざを見たい。イエスさまに選ばれたい。」と私は切に願う。御国では絶対出来ない経験がこの世にあると思うから・・。
「誰でも」ではないことが聖書の中にとても厳粛な事実として書いてある。だから、「主を求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」と言われる。
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事